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2023年3月11日のLa dolce vita/甘い生活

フェデリコ・フェリーニ監督はどうしてあの辛辣な映画を『La dolce vita/甘い生活』と名付けたのだろう。vita=life=生活、人生なので、『甘い人生』と訳出することも可能だったかもしれない。日本語で書かれた書物の中、水を飲むようにごくごく読める、と感じたのは金井美恵子が十代のときに書いたデビュー作『愛の生活』で、こちらもタイトルとは裏腹に愛の不在を描いているように思われる。でも不在であるからこそ、そのものが浮かび上がるということはままあるに違いない。不在というのは、そこにいた、あるいはいつか存在する可能性がある、ということだ。現在講談社文芸文庫から出版されている『愛の生活・森のメジュリーヌ』の解説を書いているのは芳川泰久で、私は大学のときに彼のフランス近代文学の講義を受けていた。あれはとても有意義な講義だった。バルザック、フローベール、スタンダール、プルースト…早稲田大学の文学部の教授陣は文学にまつわるどの分野においてもほんとうに頭がよく、面白い人たちばかりだった。クラスメイトたちも同様にとてつもなく優秀だった。ロシア文学、イギリス文学、アメリカ文学、ラテンアメリカ文学、ポストコロニアル文学、翻訳文学、言語学、音声学、文学批評の文脈の範囲でのフェミニズム、象徴主義、構造主義、共産主義、社会主義、実存主義思想。私が大学に行っていちばんよかったと思えることのひとつが、自分は無知で愚かなのだと、実感させてもらえたことだった。

この1ヶ月強、たくさんの言葉たちが、浮かんでは消えていった。語られなかった、たくさんの言葉たち。2023年1月25日にLilla Flicka名義の『通過儀礼/Initiation』の全国発売を終え、1週間も経たないうちに父が他界した。私はこのことをずっとずっとおそれていた。

ジャズ歌手としてのデビューアルバム『Anything Blue』は、こんなにかなしいことがあるのかと思って、それを美しさに変える錬金術として作った作品だった。けれどかなしみの底にはさらなるかなしみがあり、『Anything Blue』はある種の予感だった。そして約1年半後に出た『通過儀礼/Initiation』。リアルサウンドのインタヴューで言及したような気がするが、作品の制作過程そのものがイニシエーションであったと感じ、そのまま題になった。もちろん全ての音楽はブルーを官能に変える錬金術だし、儀式であるので、わざわざ野暮に言及しているわけだけれども、ふたつでひとつの双子のデビューアルバムなので、さらなるトートロジー的ネーミングをよしとした。双子アルバムは、まつわる出来事にも相似性があるのだろうか。私は、仏式の喪主として葬儀を執り行い、施主として納骨式を行い、墓の名義人になり、その他、近親者を亡くした者なら誰でも経験するような、気が遠くなるほどの膨大な量の通過儀礼と事務手続きの最中である。2月27日の私自身の誕生日は秒で通り過ぎていった。今年も私は生きていることに感謝。まだまだやるべきことがたくさんある。

私が金井美恵子のデビュー作『愛の生活』を水を飲むように何度もごくごく読んでいるのは、作家の処女作が(それにしても「処女作」とはなんという日本語!)素晴らしいと思っているわけではなくて(誰の作品でも基本的には今のものがいちばん素晴らしいと思う)、私という物語の作風が明らかに少女時代のオブセッションに根差しているからである。こちらもリアルサウンドのインタヴューで言及したように思うが、娘と父の関係、息子と母の関係、というのは現代に生きる誰しもがある一定の治療が必要な関係性に陥る可能性を孕んでいる。私も例外ではなかった。私という作品の根底の大部分を共同創造した父が亡くなり、私は無傷ではいられない。常にひび割れていた世界が遂にがらがらと音を立てて大崩壊し、もちろん崩壊や破壊は構築のチャンスでもある。

以前スウェーデン人の義兄が父に尋ねたことがある。「あなたはどうして甘いものを召し上がらないのですか?」父はこう答えた。「人生は甘くないからだ」。でも私は、今までの私の人生に起きた全ての出来事を顧みても、やっぱりそれでも、人生は甘く、優しく、美しいことに満ち満ちていると思う。たとえば、薔薇の花びらに落ちる雨雫、仔猫のひげ、ぴかぴかに磨かれた銅製のやかん、暖かなウールのミトン、茶色い紙に包まれた贈り物がリボンで結ばれている様子、クリーム色のポニー、さくさくのアップルパイ、玄関のベル、サンタクロースのそりのベル、ウィーンで食べたシュニッツェル、月を背に飛ぶ野生の鳥たち、白いドレスに青い帯を纏った女の子たち、鼻とまつ毛の上にさらさら落ちる雪の結晶、きらきら光る白銀の冬が溶けてやがて春がやって来ること。

私はこのブログを『La dolce vita/甘い生活』と名付け、美しいと感じるもの、もしくは美しくなさが転じてやはり美しくなってしまったもの(往々にしてこの世界の全ての事象がそうだ、これは困った)を紡いでいくことにした。不思議なことがたくさん起こる私という物語のクライマックスの一場面において、それでも想像力、思考力、周囲の支えによって、どんなに甘く幸せな生活/人生を送ることができるのか?という人体実験の記録になる。たぶん私はこの試みに成功する。たった今この文章をここまで読み終えた、そしてこれからも私が紡いでいく物語の読者になってくれるであろう、貴方との相互作用によって。優れた技術と魔法は全く区別がつかない。私は精巧な媒介でありたい。そうでなくて、どうして『アナイス・ニンの日記』が『スペインの宇宙食』が『更級日記』が、あんなに美しく読みごたえがあるというのかしら。結局のところ、この物語がますます面白くなってきたので、私は自意識のことなどとっくの昔に超越し、遥か遠くに置いて、自分という器、自分という他人のことを描写してみたいという熱情に突き動かされている。それが今回の出来事に与えられ得る最大限の意味なのだと信じ、読者にとってもそこそこ面白いものになる、と思い込む程度には引き続き無知で愚かである、という祝福とともに。

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