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高橋龍太郎とビールと高橋ユニオンズと天皇杯

令和元年12月26日 新橋

1日早く仕事納めして、明日は松山に帰省しようかという日。新橋のビアホール「ビアライゼ」のカウンターに座ると、隣に日本ビール検定顧問端田さんがいた。
「年末年始はどうするんですか?」「明日から松山にちょっと帰ってきます。」
「あなた愛媛の方なら、高橋龍太郎ご存じですか?」「いえ、全く聞いたことがありません。」
「高橋龍太郎は、日本のビール王と言われた大日本麦酒の社長で、戦後は通産大臣も務めた人です。パリーグにあった高橋ユニオンズの個人オーナーでもありました。高橋ユニオンズ。有名選手と言えば、もうピークが過ぎていたスタルヒンと新人の佐々木信也(プロ野球ニュースでおなじみ)だけであとは寄せ集め、ある試合では両軍合わせてベンチ入りした選手より観客が少ないという酷い球団でした。高橋龍太郎の生家は今も内子町にあって、町の施設として格安で宿泊できますよ。先日女房と行ってきました。」
「ちっとも知りませんでした。(ちょっと検索)えーこの人、松山中学出身で、僕の先輩じゃないですか。いまの話全てが今まで一度も聞いたことがないです。」

令和元年12月27日 松山

松山へ帰省途中にいろいろ調べてみた。実家の両親や妹に聞いても誰も知らない。松山東高サイトの本校ゆかりの人々に載っているということは肖像画も昔見ているはず。
「高橋龍太郎 実業家・政治家 喜多郡内子町の生まれ、明治26年本校を経て第三高等学校、同年大阪麦酒入社。昭和12年大日本麦酒社長。21年貴族院議員。26年通産大臣。その他東京商工会議所会頭。日本蹴球協会会長など歴任。明治8.7.15~昭和42.12.22」
この説明では高校生は興味持たないな。端田さんから聞いた物語が全く伝わってこない。

令和元年12月28日 内子 

よし、内子町の高橋龍太郎の生家に行こう。生家は伊予銀行内子支店の近く56号と旧道の間にあり、高橋龍太郎の長男である吉隆(元アサヒビール社長)さんの遺族から内子町に寄贈され、文化交流ヴィラ高橋邸になっていた。すばらしい建物(写真1)だが町の管理なので年末休みで中に入れずレリーフ(写真2)と説明板のみを観察。近くの洋食店「マザー」でランチついでに聞きこみすると、一日一組10名まで宿泊可能、朝食は、周りのご婦人方が交代で作っているとか。ますます泊まってみたい。

令和2年1月1日 天皇杯

 1月1日は天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の日。高橋龍太郎は日本蹴球(サッカー)協会第3代会長(1947~1954)を務め、日本サッカー殿堂入りをしている。1947年の昭和天皇と皇太子による天覧試合をきっかけに天皇杯を拝受したのが高橋会長である。
高橋龍太郎の三男、彦也さんは旧制松山高等学校(現・愛媛大学)、京都大学のサッカー選手であり、周りの人々から親しまれ尊敬された人柄だった。大戦中に海軍予備士官になり、戦後サイパン島海域での機雷除去作業に進んで参加。その掃海作業中に乗艦が機雷に触れ亡くなられた。彦也さんを育ててくれたサッカーのために何か力になりたいというのが、会長の就任動機であったという(日本サッカー人物史より)。
泣かせる。ここまでくると、知らなかったというのが恥ずかしい。

そしてビール

 高橋龍太郎が社長を務めた大日本麦酒は戦後、過度経済力集中排除法により氏を最後の社長として日本麦酒(現サッポロビール)と朝日麦酒(現アサヒビール)に分割された。現在、大手ビール会社で唯一アサヒビールが西条市に四国工場を有することは、氏と愛媛のご縁が少しは続いているのではないのかと思う。
 最後に肖像画の説明文を少し変えても良いというなら、「高橋龍太郎 実業家・政治家 喜多郡内子町の生まれ、明治26年本校を経て第三高等学校、同年大阪麦酒入社。昭和12年大日本麦酒社長。日本のビール産業発展に尽力。21年貴族院議員。26年通産大臣。日本商工会議所会頭など政治経済界で活躍。スポーツにおいてはプロ野球高橋ユニオンズのオーナーであり日本サッカー協会会長として天皇杯を拝受。明治8.7.15~昭和42.12.22」としたい。
初出 関東明教 21号 2020

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