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残酷な場面を書いてしまう

 小説を書いている。
 とは言ってもアマチュアで、こつこつ小説投稿サイトに載せ続けて十数年というところだ。口下手な私は、物語で表現しないと不満や苦痛など何かが脳や神経に詰まってしまうらしく、創作をセーブしていた高校時代は、ストレスの塊だった。
 小説を書き始めてからは、本当に人生上々だ。思いついたらスマホなどで手軽に書けて、内容を深めたいならいくらでも深めることができる。

 私の小説は、基本的に残酷でグロテスクだ。最初期の小説は生首でサッカーだとか凍った胎児を食べるとか、引きこもりの従姉が人生を乗っ取ろうとするとか植物状態の親友が邪魔だから殺そうとするとか、とにかく陰惨だった。もちろん好む人は少ない。

 近ごろの作品でも、友達のように思い尊敬していた人を、自分のために射殺してしまった、だとか、かつての親友だった人が金をせびってきたので正論を浴びせてその人は自殺した、だとか、精神的な残酷さが目立つ。

 私としては、何で毎回こうも残酷になるのだろうなと思うのだけれど、書いたらそうなるのだ。女子高生が主人公のラブストーリーを書いてたくさん読んでもらおうと思っても、いじめ描写が苛烈すぎて読者に怖がられ、恋愛要素も一旦の別離で主人公がかなり痩せてしまい、その横を元彼が笑いながら通り過ぎるような場面でハラハラさせてしまう。

 それについてちょっと考えてみようと思う。きっと私にとって必要だと思うから。

 私は残酷でなければ物語ではないと思っているふしがある。残酷だと「本当」を掘り当てたような感触がある。そこから状況が回復に向かうなり、周囲を破壊し尽くして主人公が高笑いするなりしたら、カタルシスでありクライマックスであり爽快なラストだと思ってしまう。

 主人公たちのことを駒だとか、操り人形を操っているつもりだとかは思わない。ただ私の中にある世界を観察するような感覚でいる。
 主人公たちのことは私と同じ人間だとは思っていない。別の世界に住んでいる、けれど私の世界に内包されている人々、という感じだ。図書館で読んだ創作論の本に「キャラクターとは人間ではない、芸術品だ」と書いてあってそれはそれで納得したが、私はキャラクターを作っている感覚はない。魅力的にしようと思っていないのもあるが、私の中にあるがままの人たちなのだ。
 ストーリーはコントロール可能だが、主人公たちのことはさほどコントロールできない。コントロールした瞬間嘘のように感じるのだ。

 つまり私は残酷な物語を作っているというよりも、残酷な物語が私の中にあるのだ。
 私は、高校時代創作ができなかった。そんな暇がなかったのだ。土日には模試があるし朝はゼロ限目があるし、夜は学校で難関大向けの授業がある。その上人間関係はぐちゃぐちゃだった。学校もぐちゃぐちゃなら家もぐちゃぐちゃで、気持ちが休まる暇がなかった。大学に入った瞬間から一年ほど人間関係を断って本ばかり読んで過ごしたのも当然である。
 そんなフラストレーションが私の中に残酷な物語を築き、とうとう私からは残酷な物語しか出てこなくなったのだ。

 登場人物を可哀想だとか気の毒だとか思うことは少ない。私が彼らを書く感覚は、小説『やし酒呑み』の登場人物たちのありようのような感じだ。キャラ萌えだとかうちの子だとか、そういうものはない。ただシンプルに好ましくは思う。私の中にある世界の人々だから、当然かもしれない。

 おそらく、私はこれからも残酷な話を書き続けるだろう。残酷さは私そのもの、私自身が純粋な残酷さで成り立っているのだ。高校時代に築いた他者への不信は残酷な物語となって、私の中に息づいていく。

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