見出し画像

やりなおしドリンク#3

昨日俺は確かに会社を無断欠勤した。
何度も震えたポケットの感触や、留守電に残された番号の記憶は真新しいと言っても過言ではないほどに。

なのに、昨日、俺はなぜか会社に出勤したことになっていて、あろうことか周りの同僚たち——上司や後輩を含む全員である。——も俺が出勤していたとそう信じ込んでいるようだった。

俺は、まさしく狐につままれたような感覚に陥った。
現実に、こんなに俺にばかり都合のいいようなことが起きるだなんてあり得ない。お小言はおろか雷が直撃するだろうと思っていた電車に乗っていた頃の自分に言ってやりたいくらいには、何もなさすぎるほどに何もなかった。

『飲めば一つだけ、過去の出来事をなかったことにできる』

その謳い文句は、まさしく本物だった。
俺はその日から度々、その栄養ドリンクを飲むようになった。

しかし全ての事象がどうにか都合の良い方向に変わるわけではなく、あくまで過去にやってしまったことを、なかったことにだけできるようであった。
だから、寝坊してしまった、失言してしまった、ついミスをしてしまった、なんてことは無かったことにできるけれども、ありもしない所業を成し遂げただとかそういうことはできないようであった。

俺は、次にあることが気になった。

“過去の出来事をなかったことにできるのであれば、その過去は一体いつまで遡れるのだろうか”と。

すでに大活躍だった栄養ドリンクはそれでも、ここ最近起きたことばかりに使っていたがもし、もっと昔に遡れるのだとしたら?

ゾクリ、背中が泡立つのを感じた。

もしも、もしもあの時あれをしていなければ、そんな後悔誰にだってある。
むしろそんなんばっかりだ。けれどもそれが、この栄養ドリンクたった一本で覆されるのだとしたら。
変えてしまいたい過去と予想できない未来に慄き、唾を飲み込む音がやけにうるさく聞こえたようだった。

そうだ、まずは少しずつ遡ってみよう。
今から考えるとなんとも恥ずかしい人生を送ってきたもんだ。
けれども今は違う。なぜならば、今の俺にはこの、過去の出来事をなかったことにしてくれる栄養ドリンクがあるのだから。

冷蔵庫の扉を開けて俺はほっとする。
上から下までこれでもかと並べ尽くされ、敷き詰められた茶色い瓶、瓶、瓶。
どの過去からなかったことにしていこうか。
去年、別の部署にいた時にやらかしたのはマストだろう。
あの時彼女に振られてなかったら今頃はどうなっていたのか。
いや、就活生の時、大手企業の最終面接で落ちていなければ。
そもそも大学受験だってそうだ。
だったらあの時は、あれがなければ、あんなことやってなければ。
こうだったら、ああだったら。

ああ、何度失敗したって、どんな罪を犯したって、大丈夫だ。
大丈夫。俺にはこれがあるから。
『飲めば一つだけ、過去の出来事をなかったことにできる』
そんなおかしな謳い文句のチープなラベルの栄養ドリンク。
喉の突っかかる安っぽい甘さがまたなんとも言えない。
失敗しよう、好きなだけ。その度になかったことにしよう、何度だって。
明日の俺は、今よりきっと、ずっと何倍もいい男だ。

プシュ
冷蔵庫から取り出した栄養ドリンクを、カッと煽って眠りについた。
明日はきっと、今日よりいい日だ。



次の日は、永遠に来なかった。



***************


たとえば、あなたは生きているとして、どうやってそれを証明できる?
息をして、脈を打って、食事をして、排泄をして、眠る。
あなたは自分を存在した一人の人間だと思っているかもしれないけれど、客観的にあなたが存在していることを証明する第三者がいない限り、あなたの存在は不確かで、かつ曖昧なものになる。
あなたが生きていると思っているそれは、なんらかの現象によって生まれた意識かもしれないし、あるいは残留思念の塊ようなものかもしれない。
そうであるかは実際のところ証明できないし、そうでないとも言い切れない。

他者からの認知がなければ自己の確立はできないとした時、ただでさえ不安定であるあなたの存在がさらに揺らいだ時、あなたはこの世界に存在し続けられるのだろうか。

たとえば、過去が変わって自身の存在が確立される前にまた改変された人物は果たしてその人だと言えるのだろうか。

変わる前までは確かにその人だったかもしれない。けれど変わった後は?
改変が定着する前に、周囲にその人がその人だと認知される前にさらにその人の過去が変わったら?
今現在存在している”あなた”が”あなた”であり続けることはできないのである。

だから彼も、改編し続けた過去の中で、“現在の彼”自身でい続けられなくなってしまった。彼は、彼自身の意思によって彼でなくなる決断をし続けた結果、“彼”という存在は消滅したのだった。

けれどきっと“彼”だった者、あるいは“彼”であるはずの誰かは、きっと今も存在し続けているかもしれない。証明はできないけれどね。

さあ、もう一度聞こう。あなたはあなたであることを、あなた自身として生きていることをどうやって証明する?
過去?現在?それとも未来?
もしもあなたが過去をやり直せるとして、果たしてそれは本当に正しい判断?

あなたの明日が今日よりもきっと良き日になることを願っているよ。
ああ、その選択が正解か不正解だなんて、誰にも決められたことじゃないよ、わかってる。
ただ、あなたの、あなた自身の健やかな未来を祈って。

今夜はもう、おやすみ。
きっと良い夢を、より良い明日を。






この記事が参加している募集

スキしてみて

いつも応援ありがとうございます! 頂いたお代は、公演のための制作費や、活動費、そして私が生きていくための生活費となります!! ぜひ、サポートよろしくお願い致します!