でも実際

生死の話するけどあまりまとめれなかった文がこちらです↓

”でも“ってのはDMで話した相手に送った言葉から引っ張ってきた『でも』なんだけど
消えたいとか死にたいとか希死念慮があって、

希死念慮が浮かぶだけだとすると、ふわふわしてるけど〇〇たいのはそう浮かんで苦しい。私はそれ以上発展することはないけど、生きてたくなかった。行動に移すのほうが自〇念慮なんだとしてどっちのほうが良いってのは自分だと、すごく病んでた時期の希死念慮からすると今はふわっと浮かぶことがあまりなくて、興味や叶えたいことがあるから、希死念慮があっても仕事してるし、興味持てるし癒し求めに行けてるし、生きてる感ある。

死についての分類があるけど希死念慮だから生きていられるの良かったなってのはなんか違うし、死寄りで生きてるのって生きづらいけど、今の浮かぶ考え的には、生きづらい日もあるけど
心癒やされる場所を知ったから、その空間に行こうと思える時(期間、時間?) は楽しく今を生きてる!って大げさめに頭ん中にキープしてよ。

5年以上前(6年かもっと前)外に出たくなくて、お腹も空かなくて、公園とかスーパーに歩きに行こうと誘われて外に出たり、食べれないからいらないと断った昼ごはんを自室に持ってきたから食べきったり、夜寝れなくて朝方(新聞のバイクの音が聞こえる)まで理由なく泣いたり希死念慮あったりしてたけど、あの頃はメンクリ(メンタルクリニック)に行ってなかったけど、今は行ってて
(それに使う自立支援の紙を見れば何年メンクリに行ってかわかるかな)
今は薬に頼ってるから生きる(大げさ)ことに前向きでいられる。
女風の存在知って勇気を今年出して行ってみて癒やされる場所を見つけたのが今年のはじまりでそれを考えながらブログ書いている今。

薬のけたらまたかなり病むのかなあ。


それにしても今月上旬に切った前髪が伸びてきて気になるなあ

それにしても午後の紅茶の無糖美味しいなぁ。

それにしても今日も暑いなぁ。


書いていく中で文書まとまってないかもと思ったけど書いてたらまとまってきた気がしたから公開しよう。