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「単純な光」を、僕らは乗りこなす。 - 目が明く藍色 -


2020年4月。不安な日々を過ごしている。

いま社会が置かれている状況は、おそらく自分の頭で理解している以上にまずいものなのだと思う。

派遣切り、解雇、毎日怯えながらの通勤、慣れない在宅勤務、資金難に陥る経営者、見えない敵と戦う現場、自宅から一歩も出られないストレス......。

ふとTwitterを見ると、誰かを非難したり、どこにもぶつけようのないイライラを爆発させる人、世の中に対する失望感などで溢れかえっている。そんな灰色のTLを追うのをやめ、窓の外に目をやることにした。うちの窓からは小さな川が見える。川沿いには桜が満開に咲いていた。そうか、もう春なのか、と当然のことを思った。

それぞれが、それぞれの不安を抱えながら過ごしている。
人は当事者から外れてしまうと突然、想像力に欠いたことを言ったり、思ったりしてしまうものだ。そのようなことは、ときに家族や恋人さえも傷つけてしまう。他者を理解することはとても難しい。だから、見えない他者の声には、もっと慎重にならなければならない。断片的な情報だけで、あるいは表層的な理解のままに他者を規定することがないよう気をつけなければならない。頭の中には、他者の様々な文脈を持ち合わせていたいものだ。窓の外で行き交う人々を見て、そう思った。



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不安の闇に包み込まれてしまった世界。

この暗い世界を過ごしていると、少し前に書こうと思っていたある作品の歌詞にまつわる記事のことをふと思い出した。それは、イベント「サカナクション解体新書」の立ち上げに参画、その後の企画にも大きく貢献してくださっているHINAさんの発言に端を発するものだ。HINAさんの歌詞解釈はいつも示唆に富んでいる。今回記事として取り上げる歌詞についても、HINAさんの解釈を聞いた瞬間に、ぜひムーンエコーで記事にしたい、と思った......と思いながらも、結局タイミングが見つからないまま今日まで書いてこなかった。しかし、今がそのタイミングとやらではないかと思うようになり、今日は書くことにした。多くの魚民さんに、多くの人々に読んでみてほしい。


それは、言わずと知れたサカナクションの名曲「目が明く藍色」の一節について。


"光はライターの光 ユレテル ユレテル"

"つまりは単純な光 ユレテル ユレテル"


目が明く藍色 - サカナクション


「光」......。

あなたは「光」という言葉を聞いてどんなイメージを浮かべるだろうか。明るい、あたたかい、眩しい...様々なワードを思い浮かべると思う。

では、もう少し具体的なシチュエーションにしてみよう。「暗い部屋にカーテンの間から差し込む太陽の『光』」を想像してみてほしい。この「光」を見たあなたは何を感じるだろうか。深い悲しみの夜から私を掬い上げる"希望の光"、あるいは、そのような眩しすぎる光に"痛みや絶望"を感じるかもしれない。いずれにせよ、このとき「光」は、もはや単なる「光」ではなく、目に見えるそれ以上の強い意味を有している。"発光体=light"としての意味を超える。

このように、目の前のモノ・コト・現象などを知覚するとき、僕たちは単なる意味を超えた"意味"を感じることができる。雨に悲しさや切なさを感じる。霧に不安を感じる。揺れる花に淋しさを感じる。日常生活はもちろんのこと、文字情報として文学に触れる際にも同様のことが生じる。古くは俳句による「情景描写」にも共通することが言えるだろう。

他方、視覚情報が人々の感情を揺さぶることもある。映画監督・新海誠は、作品の中で「光」の描写を通じて観客の心に訴えかける。「天気の子」では、雨が上がり、雲の間から太陽の光が差し込むシーンが印象的だ。そんな光が、観ている人々を前向きにさせてくれる。胸を熱くさせる。


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いま、セカイは光を求めている。僕らは光を探している。この深い闇を照らす光......。

新約聖書の一文には「神は光である」と記されている。神が導く光の世界、すなわち真実の世界へと歩みを進めることで、闇の世界、邪悪の世界から抜け出すのだと。ここでも「光」は人々を救う神として形容されている。

そんな闇を照らす希望に満ちた「光」を探し求めて、僕たちは歩みを進める。しかし、この深い暗闇の中では、ときに心が折れそうになることがある。ようやく遠くに見えてきた光にさえ、希望を見出せなくなってしまうことがある。いつか光に照らされる、その時が必ずやってくると、信じることができない。



"光はライターの光 ユレテル ユレテル"

"つまりは単純な光 ユレテル ユレテル"


目が明く藍色 - サカナクション


目が明く藍色の歌詞を読み返してみる。みなさんはどのように感じるだろう。僕はここに綴られた「光」を見て、なんだか寂しい感じがする。これまで上で書いてきたことを踏まえて、歌詞の意味をこんなふうに読んでみてほしい。

光。

光は光。

結局は、ただの光だ。

つまりは単純な光で、そこに大した意味はきっとない。

意味が揺れる。

ライターの光のように揺れる。

心が揺れる。

ユレテル。


この歌詞の一節からは、光という言葉に対する諦めのようなものを感じる。"探している光"に、希望などない。光こそが希望である!というのは幻想で、実は「ライターの光」のように、真実は揺れているのかもしれない。僕たちが期待する光は、何の変哲も無い「単純な光」でしかないのかもしれない。

山口一郎が綴ったこの歌詞には、そんな無力さの中にある悲痛、嘆きにも近い感情が込められているのではないかと僕は想像する。


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いつかの山口一郎を揺らした光。
いま、セカイは僕らの光を揺らしている。
単純な光であるかのように、ユレテル。

疑いたくなる事実に、目を塞ぎたくなる。
どうしようもない無力さに、ため息がでる。
不安は、いつまでも霧のように漂う。

セカイを照らす次の「光」は、僕らに希望をもたらしてくれるのか。
ライターの光のように、僕らの心がユレテル。

ユレテル。
ユレテル。

どうだろう、それでも僕らは、このユレテル光を、単純な光とせず、諦めてはいけないのではないか。ヨルヲヌケ アスヲシルための光を探すべく、歩みを進めるべきではないか。弱る気持ちをこらえながら、光を探し求めて僕らは行く。


メガアクアイイロ

メガアクアイイロ

メガアクアイイロ


藍色の空はやがて青になるだろう。
いつか、その時がくるまで。

僕らは、光を乗りこなす。
そしてまた、君の声を聴かせてよ。


僕はそう切に願いながら、光を探して待つことにした。


乗りこなす_アートボード 1

2020年4月4日:RAY

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