のろまな光

川㟢雄司

画像(文庫ページメーカー)1~24

テキスト(横組み)

 緑色のカップにいれたコーヒーへ手をやる。馬鹿々々しいと思いながら、吉野はいつもその色彩の関係を逆転させて、黒楽焼茶碗で抹茶を飲むような気でいる。
 薄いコーヒー。一口飲んで顔を上げる。外光の入るに任せて、部屋の電気は付けていない。澄んだ朝である。林の向こうを電車が走る。その振動でか、風の為か、ときおりカン、カンと錆びついたバルコニーの金具が揺れて鳴っている。バルコニーで陰った駐車場は薄青い。敷地の境界を超えた先では、じゃり石がひかりを軽やかに受けている。吉野の家は住宅街の通りからひとつ入った逆L字の通路の角にある。車一台分の狭い通路だが、角の外側で専有面積は大きい。友人と三人で借りている。
 斜向かいの家の横庭が見える。隣接する家屋に挟まれて奥へ通路に沿って伸び、空を青い長方形に落とし込んでいる。そこへ向かって木が三本並んで植えてある。大きいが二階にまでは届かない。少し斜にズレて、三本それぞれがよく見える。
 質の良いクリームに立てた角のように、つんとした突端が風にそよいでいる。幹も細く、枝も細く、葉は押しつぶして乾かしたように平たく、油をふくんでいる。全体がうねうねと揺れて、空をじゃらしているようでさえある。
 薄暗い室内のせいで、窓に区切られた四角はその先の眺めを舞台としてみるのに十分な隔たりを持っていた。吉野はコーヒーをさして口にせず眺めていた。この舞台は予感を孕むじゃないか。何かが起きそうだ。役者が出てきそうだ。おばさんがベランダへ出てくる、それだけかもしれない。このまま木の先端が飽きるまで揺れている、その方が面白いかもしれない。
 そうして見ていると、カラスが一羽上手から入ってきた。なめらかに滑空してきて、真中の木の頭へとまった。と思うと、木はカラスの勢いを受けきれず、そのまま地面に向かってゆっくりおじぎした。カラスはそのあいだ、羽根をばたつかせもせずに身を任せている。みょいんと反動で木が戻るのに合わせて、カラスはなんでもなかったかのようにバサバサと上手へはけていった。
 さっきまでと変わらず、手前と奥の木はそよそよと風に揺れている、挟まれた一本だけが、カラスの勢い忘れられず、左右に跳ねている。ゆっくりゆっくり小刻みになり、凪いでいって、ようやくまた三本揃ってそよぎ始めると、吉野は、ふっはっはっ、と大きな声で短く笑った。
 吉野はこの冗談みたいな出来事を他の誰も見ていなかったことが寂しい。そよそよとしているだけの三本を見つめつづけていると、本当は何も起こっていないのではという気がした。おいおい、今の見たかよ、という相手がいない。それだけで秘密めいていくことの心地よさと、出来事を一方的に見るということの不確かさを感じた。
 吉野は今、風景に支えられて見ている。証人は風景だけだ。吉野は誰かの、なにかの、眺めを支える要素になっているだろうか。カラスが飛び去ったときに、カラス本体だけではなく、それ以上のなにかがその場から持ち去られてしまったようだった。
 吉野はコーヒーを啜った。そのぬるさに目をやると、揺れた黒い水面でたわんだ吉野が、こっちを見ているのだった。ゆっくりゆっくり、曲率に合わせて跳ね返る視線が吉野にかえっていく。その反射の激しい往復は停止と等しく思われるほどだった。
 ごくり、とのどが鳴った。
 吉野は木の解釈を始めた。三本であることとその真ん中にだけ変化があったということが、意味を帯びていくのを楽しんだ。カラスのとまったのが一番手前の木であったらどうだったろうか。奥の二つがひとまとまりに感じられて、その二つが逃れた難を、たまたまそこへ位置したというだけで手前の木が被っている感じがする。二つはそれに対して幾らかの自覚があるだろう。奥の場合ではどうだったか。今度は手前二つがひとまとまりになるが、ちょうど屋根で遮られた陰がかすめているせいか、奥の木には最初に立ったものの悲哀さえ出てくるようで手前二つは奥の苦労も知らずにのんきに戯れているようである。ところが真中ひとつとなるとどうか。奥も手前もそれぞれがひとつとしてそっぽを向いている。真中が横に揺れる合間にあとの二つは互いに目くばせくらいはしているかもしれない。しかしそこでやりとりされる内容は揺れている原因についてでさえないだろう。真中の木とは無関係のことに違いない。
 三人姉妹のようだと吉野は思った。吉野はその思い付きを気に入ってさらに眺めつづけた。奥が第一子として感じられてくるのが不思議だった。三人はそよそよと話し続ける。吉野は三人の名前をつけなくちゃなと考えた。どんな話をするだろう。
 
 鎌倉へ行きたい、と言いだしたのは青葉だった。楓はすぐに同調して自分の食べたいものを思いつくまま挙げはじめる。「食べるのもいいけどお店はかえちゃんに任せる。並ばないならどこでもいいよ」
 「青葉は本当興味ないよね」
 「並んでまで食べたいものないよ。時間の無駄。いらいらする。でもあれ食べたいなんだっけ、パンケーキだかなんだか、有名なヤツ」
 「あー、あの……」
 「でもね、でもね、聞いて。私はね、あじさいが見たいのよ。すっごく綺麗なんだって。すっごくいいよって皆言ってた。見に行こう」
 「でも混んでるよ」と菫が言う。
 「いいのよそれは、見えれば」
 菫は遠くまでわざわざ銅板で焼いたパンケーキだかホットケーキだかボリュームのあるクレープだかを食べに出かけたくはなかった。もちろんその場に行けば結局全部食べるだろうことは分かっていた。しかしそのために三人でわざわざいっしょに動くとなると面倒だというのが先に来る。楓は人当りよく柔らかで優しいが、自分の利益をすぐさま勘定して動いているだけで、青葉にごちそうしてもらおうとすでに鎌倉で食べたいもの、美味しいものを調べてリストにし始めている。青葉は行動力があるが、勢いだけで動くからひとつ間違えると振り回されるだけ振りまわされて疲労しか残らない。菫はあじさいに惹かれた。あのこんもりと膨らんで咲く花が好きだった。薄いながらも瑞々しく厚みを感じさせる花びらもその色味も。なによりあの淡い青紫が好きだった。自分の名前になっている小さい花ももちろん好きだが、あじさいはまた別の魅力を持っていた。雨の季節だからだろうか。
 「ねえ、すうちゃん、あじさいは毒があるって! あとあれ花弁じゃないらしいよ、まじか。あれが花だと思ってた。思ってたよね? 知ってた? あのボンボンみたいなさ、あじさいの花びら、花びらじゃないんだって、ガク……? へえ、装飾花。まじか。なんだそれ」
 「……何見てるのそれ」
 「ウィキペディア」
 「ねえクレープとかトンビに持ってかれたらどうしよう。あおちゃん二つ目も買ってくれる?」
 「大丈夫。すぐ食べたらいいのよ、かえちゃん得意でしょ」
 「鎌倉のあじさいってどこに行けば見れるの?」
 「え、どことかあるの? 鎌倉中で咲いてるんでしょ?」
 「鎌倉のあじさいを勧めてくれた人は駅前のあじさい背負って写真撮ってるわけじゃないんでしょ? 聞いてみなよ」
 「あー、そっか。ちょい待ち。あ、ね、これ見てすうちゃん、面白くない? この人のTシャツすごくない?」
 「ああ……面白いっていうか、うん、変なTシャツかもしれないけど、まあ好きで着てるんでしょ? 友達?」
 「ん、いや知らない人。駅にいただけ」
 「え、写真撮っちゃだめでしょ、そんな見知らぬ人を勝手に。ただの盗撮じゃん」
 「えー、でも顔映ってないよ」
 「顔以外全部映ってんじゃん」
 「でもいいねいっぱいついたし」
 「ネットに上げてんのかよ……」
 
 「ぅおあようござあす」と言って、上田がリビングに入ってきた。リフォーム前は鴨居があっただろう部屋の境の一段低いところに頭をこすらないように巨体をかがめ、目をこすっている。長い髪の毛はてんでばらばらの方へ伸び散らかっている。
 「どおぁすか。調子は」テーブルに椅子を寄せると、あくびまじりに上田が尋ねて鼻を啜る。「いや、どうということもないけどね。凄い顔してるね、昨日はけっこう飲んだの?」うーん、と言って上田はポットからお湯を注いでそのまま飲んでいる。
 吉野は頼りない木の頭に止まったカラスがそのまま弾かれるように飛び去った話をした。そのあと木を三人姉妹に見立ててきっといろんな会話をしてるだろうというのを考えていたと言うと「朝から調子がいいね。よく眠れたの?」と上田は言った。
 「まあ、そうかもしれない」
 「あじさいの話するには寒すぎない? あれ梅雨時に咲くやつだろ。鎌倉は行きたいけど」
 「まあ、いいじゃないの」
 外は少し黄色みが増して暖かそうだ。白湯とコーヒーをそれぞれすする音だけが響く。
 「山口は?」と上田が聞く。
 「ああ昨日から実家だろ、昼には来ると思うよ、たぶん」
 「みんな何時くらいに来るかね」
 「さあ、あいつが連絡とってるだろ」
 「何食べたい? 俺はねえ、マッシュドポテトが食べたいんだ」
 「いいねえ、俺はなんか、うまいパンがいいな、かための」
 吉野はうっすら残ったコーヒーを捨ててすすぐのに流しへ行ったが、立ち上がるには小さくかけ声さえ必要とした。戻るとポットからでるまま、白湯を飲む。そのまま二人とも生来のものぐさに任せて白湯ばかり飲んでいる。食べたいという気も起らないのに、食べ物の話をしたせいか、ポットに並べて置いてある鉢のなかの煎餅が目に入りばりばりとやり始める。上田も手を伸ばす。咀嚼音とすする音、ポットの作動音、注がれる湯の音、ため息。
 
 狭い通路を手慣れた滑らかさで青い車がバックで入ってきた。切り返しもせずに駐車場へおさまる。ドアの音がしてまもなく、久しぶりに見る山口は一言「おー、掃除するぞ」と言った。「吉野は玄関、上田はリビング、俺は上で七輪の準備するから」この家で掃除ができるのは山口だけだ。
 吉野は玄関のタイルを適当にほうきではいてから山口の持ってきた荷物を運び入れるのを手伝った。一番大きいダンボールは中身が炭だけだった。二階に持ってあがって、バルコニーに出てすぐへ置く。二階を二部屋開け放してもバルコニーの方が広いような気がする。相変わらず揺れてカンカンいっている。七輪をセットして周りにこまごましたキャンプ用品らしい道具を並べて検品している山口をよそに、吉野はつっかけでぺたぺたとバルコニーをふらつく。手すりも錆びついてガタガタだ。肘をかけて朝のカラスがお辞儀させた木を上から眺めた。煙草を吸おうとしたがポケットには何も入っていなかった。空気は冷たいが風もない。日差しを受けていると暖かい。空は澄んで遠くがハッキリ見えるようだ。
 煙草を取りに戻りしな、山口にみんな何時ころ来るのかと聞いた。とりあえず十五時ころに一人来る。あとはバラバラだ、着くころに連絡があるよ。そうか、なんか買い出し必要? ああ、まあ食べたいものがあれば、いや、コーヒー買ってある? 吉野コーヒー淹れてよ。コーヒー? 古いやつしかないな。
 駐車場の後ろに置いた、便器の詰まりをなおす道具を逆さに立てたような形の灰皿の脇で、煙草を吸い始めた。器の部分の赤が郵便ポストみたいで吉野は気に入っている。コーヒー豆を買いに行くとなると自転車で行かなきゃならない。凄く微妙な距離だ。きっと寒いし、上着も着なくちゃならない。面倒くさいうえに買うのがコーヒー豆だけか、と考えながら吸う。ふるまったコーヒーを飲んで、わ、おいしい、お店で出せるね、すごいと言って喜んでくれた前回の記憶をどうにか思い起す。イメージが出来たら煙草を消す。この灰皿は器が深いからたくさん溜めておけるが、たまらないうちは深い分、手を差し込まないと底まで届かない。口のラインを境界として、そこより奥へ手を突っ込むのはいつものことながらぞわぞわしてイヤだった。
 マンデリン二百グラムが入った袋だけぶら下げて帰ってくると多木が来ていた。
 「わあ、多木くん、早かったね。何それ高そうな肉。何つくるの」
 「あ、吉野さん、お帰りなさい。久しぶりですね。これはですね、赤ワインで煮込むんです。山口くんが圧力鍋を買ったと聞いたので」
 それからひとり、ふたりとそれぞれ食材を抱えて人数が増えるとリビングは活気づいた。
「ねえ、見た? フランス、やばくない? 藍ちゃん友達とか大丈夫?」とドイツへ留学していた平野が聞いた。
「ねえ、やばいよね。私の知ってる人たちは無事みたいだけど。もう、信じられないよね。心配」とフランス留学から帰って間もない柚木は答えた。そのままお互いの興奮を育てるように話している。吉野は何のことだか分からなかった。二人はしきりにフランスフランスと言っている。周りで聞いている人間もときおりうなずいてみせている。
 「フランスでなにかあったの?」
「え? 知らないの?」と二人がほとんど同時に吉野を見た。二人の大変な勢いに吉野は少し体を引いた。
 「テロだよ、同時多発テロがあったの!」
 「ここんとこニュースそればっかりだよ、見てないの?」
 「あー、ここテレビないのか? イスラム過激派の、ISILがパリでとかだよ!」
「ねえ?」「ね」と言って二人はまたお互いに向き合いながらの会話にもどっていった。吉野には何もイメージできなかった。
 テロ? 爆発……? 窓の外はいい天気。自分の生活圏内の出来事は穏やかそのもの。それを維持したい。それはフランスに住む人も同じだろうが、突然破壊されるのか……。あまりの出来事に思考が追い付かないのか、友人づての情報だけで当の友人たちに悲壮感がないからか、自分の暮らしのまいにちと接続されている感じがしなかった。吉野は窓の外の木を見た。さっきコーヒーを買いに出たときの風の冷たさと日差しの暖かさを思った。自分の暮らす家に来た友人たちがみんな元気でいるのを見つめた。自分の暮らしには、できるだけ丁寧に自分で手入れをしなくちゃならない、今感じている暮らしの範囲にあるものは、せめて、見失うことがないようにしたい、ふたりの夢中な会話を見つめて吉野はそう思った。そのうちに二人は上田とともにマッシュドポテトをつくる算段に夢中になっていった。
 各自の作業にいそしむのをしばらく見つめていたが、手持ち無沙汰になって吉野はうろつき始めた。自分の寝室と作業部屋から小道具屋で買った大小の文机をバルコニーへ続く部屋へ運び入れて、食卓としてセットすると、外へ出てタバコを吸うことにした。上田たちは大量のジャガイモをマッシュすべくひたすら皮を剥きはじめていた。
 バルコニーへ出る窓は吉野の膝くらいの高さにあって、出入り口というよりはもともと採光の為にあるものだったから、またぎながら頭を少しかがめなくてはいけなかった。出てすぐの足場として置いているすのこに腰をおろしてつっかけをはき、小さいアルミのごみ箱の形をした灰皿を寄せて一服し始める。右手の向こうに、ちぎれた白雲にかこまれた大きな雲の塊が見えた。
 その雲はこちらへ流れてくる先がふくらんでいて、具合のいい曲線で奥へとすぼんで見える。少し肌寒い。指の隙間から煙が立ち昇ってたなびくのを吐いた煙で吹き飛ばしながら、紡錘形の雲の流れてくるのを眺めていると、しだいにそれが大きな魚に思えてきた。大きい割になかなか近づいてこない。大きいからよく見えるだけでずいぶん遠くなのか、上空も風が強くなく、ただゆっくり流れているのか。一度魚と思うとその存在感にみとれてしまう。空を泳ぐ大魚のイメージはどこか親しみの持てるものだった。中国の神話にでも出てきただろうか。たしか白鵬は鳥だったはずだが、似たような存在の魚がいたかもしれない。ナマズのような、コイのような、シーラカンスのような巨大でぬらぬらとした余裕のある動き。本来は日が沈んでから活発になるような気がする。薄青い空をさすってより薄くするように進んでくる魚は、薄絹でくるんだ夢のようだ。
 ガラリと窓が開いて、山口が出てきた。小ぶりなクーラーボックスを抱えている。
 「おお、サボってんなあ。魚焼くぞ」といって七輪を引き寄せた。着火剤を炭の中へ押し込んで火をつけてあおぎ始めると思ったより高く炎が立った。団扇を下からぶわりぶわりと手首をくねらせてあおいでいる。炭を間引いて少し炎を抑えると網を置き、クーラーボックスの魚を選び始める。「その魚何?」「鯖だな」「サバか」「うまいよ」「釣ってきたの?」「そうだ」
 腹から開いた鯖を一尾、網にのせるとそれでもう網はいっぱいになってしまった。
 「釣り連れてってくれよ」「ああ、いいよ。ただオヤジの都合で日にちが決まるからな」「ああそっか、お前と行けて嬉しいだろうね」「うん。いつも喜んでるよ。そんですげえんだあの人。釣るんだよねえ……」「さすがだな」
 網の上の鯖に火が当たるのをしゃがみ込んで見つめる。山口はときおり七輪の側面、下の方にある穴から団扇をあおいで空気を入れる。火はすでに十分ついているから、ただなんとなくぶわりとくねらせているだけだった。その度に底の方で炭がその内部から鮮烈に赤く光る。チリチリチリという乾いた音がきよらかに響く。それを二人して見つめている。
 その金属的な音にまた別種の音が聞こえ始めて、吉野はより耳を澄ませたが、すぐにグラスのかち合う音だと分かって部屋へ顔を向けた。火で暖まった顔がすうと冷えた。いつのまにか来ていた林が両手いっぱいにグラスを掴めるだけつかんで部屋に入ってきたところだった。
 「おー、吉野くんここに居たんだ、久しぶりー。山口くんも。何もう魚焼いてんの、いいねえ」
 机にグラスを固めておいてから窓辺へ寄ってきた林に下の様子を聞きながら山口があれこれ話すのに任せて、吉野はまた炭に目を戻す。するとふっと視界が暗くなった。顔を上げると日と影の境界が山口の体を横切っている。そのまま上を見ると雲があった。それほど大きい雲ではなかったから不思議に思って、雲の流れを辿ってくるりと回りながら背後を見上げた。大きな雲があった。遠くの空に目をやると魚の形をした雲はもうなかった。さっきの魚雲がもうここまできて、ちょうど頭上を流れているのか、と気がついてまた見る。雲の底は暗い。際が光って輪郭をきらめかせている。周囲のちぎれた雲は、明暗の程度がもっとなめらかであまり厚みを感じない。この魚雲は分厚いのだ。その腹がしだいにすぼまって尾になって流れていき、薄暗がりが一瞬だけ線のように残ってまた明るくなった。過ぎていく魚雲を追ってみつめる。吉野は自分が川底の小さな生き物になったような気がした。目も合うことなく通り過ぎていく巨大な、別の軸で暮らす生き物。生活の軸が違うだけで同じ川の中にいることや、それをこちらからだけ見ていられるひとときの不思議を感じた。
 「もういいんじゃないか、これ」と言って、山口は魚を突っついている。紙皿へ移して顔がほころぶ。いつの間に準備していたのか醤油をひと差ししておいてなお、焼き具合を確かめるだけだとでもいうようにそっと身をひらく。そのままほぐして感嘆しながら食べ始めた。「うまい! ああいいね、最高だ」山口の念願叶ったとみえる。
 吉野は様子を見がてら、食卓の準備に参加しようと階下へ降りた。上田と平野と柚木が白い三角山を築き上げていた。おそらくマッシュドポテトである。脇へ避けてあった幾らかの白いかたまりを口にしながら上田は「ああ、うまいっ、いい塩加減だよ、やっぱり塩だったなあ」と言っている。その顔を見て笑いながら、あとの二人は山のふもとから頂上へブロッコリーを埋め込んでいる。みるまにもう中腹まで埋まっている。吉野は何をしているのか判断できなかった。俺にはない発想だな、と思って見ていると、吉野に気がついた柚木が嬉しそうに「あー、吉野くん、見て、ほら、クリスマスツリー!」と言って両手の平をめいっぱい広げて紹介してくれた。てっぺんまでブロッコリーを敷き詰めたあとで、星を載せるのだろうか。吉野は驚いた声だけを遠慮がちに出して、魚焼けたよと言った。
 それぞれの料理を運び込むと、かき集めた座布団で卓を囲む。お茶とワインを配る。狭い部屋だから人数のせいで暖かい。山口は次の魚を焼きに出た。
 「やあ、いいねえいいねえ、親族の集まりみたいで楽しいね。うち実際集まるような親戚いないからさあ、こういう感じなのかなあ。いいねえ」と柚木が言った。少し顔が赤い。手にしているのはお茶だが、人の密度による熱気に加えて、この状況の嬉しさを口にしながら恥ずかしくなっているらしかった。用事があるからと言って林はすぐに帰ってしまった。
 腹がふくらむと、せっかくだからとゆるやかに企画されていたプレゼント交換をやろうと平野が言った。山口が、音楽が必要だなと言って一階に降りた。柚木の焼いたケーキが冷蔵庫にあるからと皆で一階に移る。古い大きなスピーカーに挟んで置いてあるプレーヤーになぜか尺八のレコードをかけようとした上田を制して、山口が『戦場のメリークリスマス』をかけようか悩んでいる。吉野は、それはまだ早いだろう、もっと後でいいよと言った。ちょっと劇的に盛り上がる方がいいか、と言ってまた悩んだあとでお気に入りのラフマニノフの『死の島』をかけはじめた。暗いねえ! という平野に、厳かと言ってくれと山口が返す。柚木はトナカイの角を模したカチューシャをしている。はい、これ平野ちゃんの、とカチューシャを渡し、上田くんはこれ! といってトナカイの被り物を渡して満足そうにしている。どうもどうもと多木が最後にペラペラの赤い衣装を全身にまとって入ってきた。帽子に髭までつけている。大きめの丸眼鏡がより一層際立っている。ホールのショートケーキを出して切り分ける。何のタイミングということもなく、ただ景気がいい感じがするからと言うだけで上田がクラッカーを鳴らすと、平野も柚木も一緒になって騒ぐ。プレゼントは千円が上限で、どれを誰にというのに、鳴っているのが『死の島』では音楽頼みにぐるぐる回してどうにかなりそうにもないのでアミダくじになった。棚の隙間に差し込んでいた段ボールを抜き出してマッキーで線を引く。各自が名前と線を書く。山口がそれを掲げて司会を始めた。
 山口は平野の球形のろうそく、吉野は柚木の日本酒カクテルセット、上田は多木の香辛料セット、柚木は吉野の九州土産の謎の仮面、平野は上田の漬物アソート、多木は山口の簡易プラネタリウム。
 「吉野お前なんでこれ選んだんだ? かなり人を選ぶだろ……」
 「藍ちゃん仮面好きだから、行くべき人のところへ行ったって感じだね」
 「ね、すごい。この仮面かなり意味わかんなくて良い!」
 「そうかあ、よかったよ」
 「日本酒カクテルなんてあるんですね」
「そうそう、日本酒いれておいとくの。これはショウガとカボスだけど他にもあったよ」
 「せっかくだからろうそく点けてみるか。なんかでかくていいなこれ」
 「お、じゃあ燭台持ってくるわ」と言って吉野はコレクションを並べた。鋼の平たいのがひとつ、鉄の持ち手に藤が巻いてあるのがひとつ、銀の細長いのが一組。
 「じゃあ祭壇をつくろう」と山口がレコード棚の前に台を据えて、上に布を敷いて花瓶をいくつか配置した。吉野は飼っているクワガタのケースをその真ん中前列に据えた。なにそれ、と柚木が興味を示す。ニジイロクワガタだよ、と吉野が答える。「すごい、玉虫色ですね」「夏祭りで貰ったやつだな」「そう、七年祭のときの」「え、生きてるの?」「さあ? 最近全く動かない。死んでるのかもしれない」「どこに棲んでるもんなの」「南米だったかな」「あったかいとこだ」「うん、冬眠中かもね」「どれくらい生きるの?」「ああ、二年くらいらしいよ、でも今三年目」「すごいじゃん」「ね、動かないけどね、ある日突然動き出してさ、夜中になんか音がするなと思ったら、こいつがケースひっかいてて、あ、生きてんだ、季節が変わったんだなってそれで気がつく感じけっこう好きなんだよな」
 ケーキがなくなると、吉野はコーヒーを入れた。「あ、すごい。お店の味がしますね」と多木に言われて、吉野は喜んだ。
 「なんか寒いと思ったら、ストーブ付けてなかったね」と山口が灯油ストーブをつけてしばらく青い火を見つめた。「お前今日は火ばっかり見てるな」「ああ、そうだな。きれいだよ」
 ひとしきりの騒ぎは落ちついて、苦みの濃いコーヒーで口の中に残ったケーキの上品な甘みをとかす。上田と柚木はレコードを漁りながら鼻歌を歌っている。クリーム色のカーテンを背負って山口と平野がいる。吉野は朝、窓の外を見ていたときと同じ席にいる。左手に多木がいて、にこにこしながらコーヒーを飲んでいる。台所へ続く横長の曇りガラスの窓には防寒に梱包用のプチプチシートが貼ってある。光をひとつよけいにぼやかしているようだった。申し訳程度の空気の層、窓の向こうには冷たい夜。ピーン、と多木の携帯が鳴った。山口は「そういえば今日は天気がいいよな。望遠鏡を買ったんだよ。双眼鏡しか持ってなかったけど。今日は結構見えるんじゃないかな」と平野に話している。
 「えー、見たいみたい。ベランダで見れるんじゃない?」と言って、ふたりで上へ行った。多木はまだ携帯を見ている。『戦場のメリークリスマス』が流れてきた。上田と柚木は薄眼でタラララタンと腕をしならせながら歌っている。
 「多木さん、今さベランダで星見ようと思って準備してたんだけどさ、けっこういいかも。車出して移動したらかなりよくみえるね今日は」と山口が高揚した声で言った。
 「山口くん、今ね、メールで、連絡が来て、柴田先生が亡くなったって」
 「え」と山口が止まったのを感じたのか、柚木はうたうのを止めて多木を見ている。多木は同じ内容を伝えた。上田が平野を呼びに行った。四人をテーブルに座らせて、吉野は上田とレコード棚の前に座った。四人の恩師らしかった。上田がレコードのボリュームを絞って、そのまま曲が終わると部屋はとても静かになった。多木の口から、連絡がきた流れを聞いて三人とも黙っている。一人がなにか、短く声に出して話してみては、また四人とも静かになるのを繰り返していた。吉野はそれをぼんやり眺めていると、きいきい耳が鳴る気がした。柚木が一番面くらっている様子でうろたえている。知らない人の存在をその訃報によって初めて知ることの不思議な心地を吉野は覚えた。上田を見ると携帯を手にしながら難しい顔をして鼻息を出している。それがちょっとしたポーズであることはすぐ分かった。耳がきいきい鳴っている。
 「なんかきいきい鳴ってるね」と上田が顔を上げて言った。
「え、お前も聞こえる?」吉野は自分の耳の中で鳴っているものと思っていた。上田が体の向きを変えると、レコードの入ったガラス戸が電灯を反射してちらつく。目を向けると、きいと鳴ってケースの中でクワガタが動いていた。

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川㟢雄司

「生きろ。そなたは美しい」