『太平記』相論①

正平元年(1346年、正平は南朝の元号。北朝は貞和2年)12月、児島高徳は備前の自らの屋敷にて、文机に向かい、筆を走らせていた。

時々手焙りで手を温め、時々蔀を開けて、外の景色を眺める。

時に蜜柑や干柿を食い、また囲炉裏で餅を焼いて食う。囲炉裏にかけた薬缶にうこぎの葉を入れ、うこぎの茶を飲む。

「蒙窃(ひそ)かに古今の変化を採って、安危の所由を察(み)るに、覆って外無きは、天の徳なり。明君これに体して国家を保つ。載せて棄つること無きは、地の道なり。良臣これに則って、社稷を守る」

児島高徳は、後に『太平記』と呼ばれることになる書物を執筆しながら、霊感に捕らわれたような恍惚感に浸っていた。

(そうじゃ、この書は太平を目指すためであってほしいのじゃ)

高徳の筆は続く。

「もしその徳欠くる則は、位有りといへども、持(たも)たず。いはゆる夏の桀は南巣(なんそう)に走り、殷の紂王は牧野に敗す。その道違ふ則は、威有りといへども、保たず」

(流れるように筆が進む!儂は今真理を語っておるのじゃ!)

高徳は速く書きたい衝動を抑えかねた。


(やはり楠正成だな、正成がいくさをする時が一番盛り上がる。正成はこの時代の最大の花じゃ!)

楠正成が千早城、赤坂城に立て籠もり、鎌倉幕府の軍が正成の討伐に手こずっている間に、足利尊氏が六波羅探題を攻め落とす。

戦火は全国に広がり、新田義貞が分倍河原の戦いで幕府軍に勝利し、幕府が滅びる。

(楠正成は古今無双の名将、坂上田村麻呂や八幡太郎義家、九郎判官義経とも肩を並べる名将じゃ。いくさに強いだけではない。時勢を見抜く能力もまた卓越しておる)


何より、戦乱の時代である。

後醍醐天皇が鎌倉幕府に反旗を翻して、幕府を倒し建武の新政を起こしたが、それも3年も立たずに終わり、後醍醐天皇が2つある皇統のうちのひとつ大覚寺統であるのに対し、足利尊氏は持明院統の光明天皇を即位させてが征夷大将軍となり、室町幕府が開かれた。

天皇が政治の中心であるべきという後醍醐天皇と、武家が政治の中心であるべきという足利尊氏の対立。

その戦いは足利尊氏の勝利に終わった。

(正成在世中と比べ、この頃は花がないのう)

高徳は在りし日に思いを寄せた。

(正成は忠義の臣であった。今の武士は自分の欲ばかりじゃ。忠義がなければ人間として美しくない。今の世の乱れは人が欲ばかりで、忠義に基づかないからじゃ。特に高師直。忠義を示して、人はかくあるべしというのを示さねばならぬ。かくいう儂もーー)

「船坂山や杉坂と、御あと慕いて院の庄、微衷をいかで聞こえんと、桜の幹に十字の詩。『天勾践を空しゅうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず』」

と、高徳は書く。

元弘の変で後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ、隠岐に流された時のことである。

高徳は天皇を奪還するため、一族郎党200騎を率いて、備前の船坂山で天皇を移送する佐々木道誉率いる500騎の警護団を強襲しようとするが、高徳は移送経路を読み間違えて警護団を逃してしまう。

続いて杉坂まで追ったが、その時警護団は院庄まで行っており、奪還は絶望的だった。

まだ世の中には、幕府を倒そうという気運は盛り上がっていない。追う気の失せた郎党達は霧散し、高徳は一人になった。

それでも高徳は諦めず、院庄に忍び込んで天皇に近づこうとしたが、天皇の御座所に近づくにつれ警護が厳重になっていったので諦めざるを得なかった。

その時に桜の木に脇差で彫りつけた詩が『天勾践を空しゅうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず』」である。

勾践は中国の春秋時代の越の王で、呉王夫差に敗れた越を立て直し、越を討った王である。屈辱を忘れないために肝を舐めて過ごしたという故事は、夫差が薪の上に寝て屈辱を忘れなかったという故事と合わせて「臥薪嘗胆」として知られる。范蠡は勾践の越の宰相である。

(若い頃は、儂も学問がなかった)

鎌倉時代、武士の大半はかなしか書けなかったという。

備前の小地頭にすぎない児島家生まれの高徳も、その点ではさしたる差はなかった。

しかし高徳は、両統迭立という、持明院統と大覚寺統が交互に帝位に就くという、鎌倉幕府の定めた原則に早くから批判的で、そのため大番役などの機会に、下級の公家や僧侶と交流を持ち、そのたびに多少の学問をした。

学問をしたといっても、戦乱の世である。師につく機会もろくになく、本を手に入れ、その本により手習いをするやり方で、充分に学問をしてきたとは言い難い。

実は、この『太平記』の草稿も漢字はろくに使っていない。

それどころか中国の故事もよく知らない。殷の紂王も唐の禄山も知らなかったりする。知っている故事もあるが、我流の人によくあるように、知識がまだらである。

(そもそも趙高も禄山も知らんわい。それに儂も、『平家物語』のような文を書けたらな)

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」

という『平家物語』は、琵琶の音に乗せて語られるように、文自体が音楽的である。しかしそういう文を書くには深い教養が必要なのである。

幸い、高徳には校正してくれる人がいる。

玄慧という、倒幕の密議の場で、後醍醐天皇や公卿に古典や宋学を講じた、天台宗の法印大僧都である。また玄慧は、室町幕府の建武式目の制定にも関わっている。

「今の時代ほど、太平というものを考えるに良い時代はない。帝が賀名生(あのう)に逃れ、その地で寂しく崩御された。それを許して良いものか」

という玄慧の言葉に、高徳は激しく心を動かされた。

「まさしくその通りにござる!それがしも不才ながら、真の太平とは何かを世に問おうと思うておりました。そのため軍記物を書きたいと常々思うておりましたが、どなたかにご教示頂かねばーー」

と、高徳が熱を込めて言うと、

「それは良い。それがしは軍記物は書けぬが、草稿があれば、文を粉飾することができよう。ひとつ書いてみてはいかがかな?」

と言われ、それで執筆にかかったというわけである。


「やはり太平の秘訣は楠公(なんこう。楠木正成)でありましょう!」

高徳が勢い込んで言うと、玄慧は頷いた。

「しかし困ったことに、それをどのように伝え申せば良いのか、それがしうまく言葉にできませぬ」

そう言って高徳は、玄慧の前で腕組みした。

無理もない。

正成のように、めっぽういくさに強く、時勢を見る目を持ちながら、ひたすら天皇に忠であった武将というのは、それまでの日本には皆無であった。

武士に忠誠心がないのではない。武士は基本、主君に忠誠心がある。また天皇に忠誠心がないのでもない。しかし天皇が親政を行おうというのに、ここまで忠実な武将はいなかった。

「将軍様(尊氏)が九州から大軍を率いられた時、楠公は帝に降伏を勧められた。帝は楠公の意見を退けられた。そこで楠公は帝に比叡山に逃れ、将軍様を入京させた上で糧道を経つよう献策したが、帝はそれも退けられた。そこで楠公は出られ、湊川にて散られた。ここに太平の秘訣があるのではないかと思うのでござる」

高徳が言うと、

「忠臣というのは不徳の君主の元でこそ光るものである」

と、玄慧は言った。

その言葉に、高徳は光を見た思いがした。

(それじゃ!今の時代に必要なのは不徳の君主に忠を尽くす臣なのじゃ)


この時代、人が執筆に裂ける時間は短い。

春になり、ようやく湊川の戦いを書くところまで、高徳はこぎ着けた。

「正季からからとうち笑うて、『七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ』と申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、『罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん』」

(こうでなくば。楠公の胸中このようであらねば)

書きながら、高徳は思った。この時代、人の心は感動しやすく、高徳は書きながら涙した。

できた草稿を玄慧に送り、玄慧から完成した原稿が返ってきた。

「おおっ!これは見事な文じゃ!」

高徳の足りない教養を補い、音が鳴るような文である。

しかし湊川の戦いについては書いてなかった。

「細川和氏殿が横槍を入れてきた」

と、手紙には書いてあった。作者とはいえ、身分の低い高徳に、直接手紙は送ってこないのである。

玄慧が校正をしていることも、高徳に手紙が来ない理由のひとつである。

細川和氏は、『太平記』と同じ時代を描いた軍記物で、足利幕府よりの作品である『梅松論』の作者と目されている一人である。

細川和氏によれば、

「吉野院(後醍醐天皇)の親政には民心がついてこず、勅命をもって軍を徴発しても、楠正成の一族さえ肯んじない有様だった。そんな中で楠公が『七生まで同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさんと言ったとは思えぬ」

というものであった。

(なんと!楠公は軍を徴発できずに逃げたのではない。軍を徴発できずに、寡勢で出陣して討ち死にされたのじゃ。これではあまりにも楠公がお気の毒じゃ)

どうしようか、と高徳は考えた。

高徳は南朝方だが、南朝の軍に属して戦っている訳ではない。

ただ北朝の軍にも属していないだけで、軍事的には中立である。

備前の小地頭にすぎない高徳では、それが限界だった。ただ軍に属さなくても、観応の擾乱が続いている今なら、近隣の地頭の動きに気を配り、守護の要請に従っていれば、なんとか生き延びることができたのである。

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