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創共協定または共創協定について    -やがてかなしき鵜舟哉ー

はじめに 池田大作氏と竹入義勝氏の逝去

 2023年11月15日に創価学会名誉会長池田大作氏が、12月23日に元公明党委員長竹入義勝氏が逝去されました。2023年12月28日は創共協定または共創協定の締結された1974年12月28日から49年が経過し、来年、2024年は協定締結から50年を迎えます。創価学会・公明党は当時と比べれば時代に逆行するかのように内向き、組織活動と選挙の支援活動のますますの一体化、与党慣れが進み、不祥事も自民や維新と比べればまだましな方、同じ穴のムジナに見られたくないとまで開き直り、不協和音はますます大きくなる一方で、連立解消も時間の問題に思えます。と同時に現在では過去に共産党と協定を結んだことがあるとは思えないぐらい共産党を敵視する態度をとり続けてもいます。なぜそうなってしまったのか、過去を冷静に振り返ることが必要なのではないか。筆者はそのように考え、いわゆる創共協定、共創協定がそもそもどのような内容のものだったのか、どういう経緯で結ばれたものなのか、どうしてうまくいかなくなってしまったのか、について調べて文章にまとめたものが過去のnoteの文章です。一つにまとめる準備はしていましたが、池田大作氏と竹入義勝氏の訃報を機に、序・破・Q(急)を一つの文章にしました。ほぼつなげただけですが、筆者なりの追悼文として読んでいただければ幸いです。

創価学会と日本共産党との合意についての協定

 まず、昭和49年(1974年)12月28日に日本共産党と創価学会との間で結ばれた「創価学会と日本共産党との合意についての協定」の全文と、翌50年(1975年)7月27日、協定が発表された際に付された双方の「経過について」という文書を日本共産党と、創価学会のそれぞれの刊行書籍から引用する。日本共産党側の協定文書は、山下文男 「共・創会談記」1980年6月15日初版発行 新日本出版社、巻末資料 222‐224頁から(山下文男氏は協定の共産党側の当事者の一人)、創価学会側の協定文書は聖教新聞昭和50年7月28日2面、聖教新聞縮刷版昭和50年7月~8月通巻第80号314頁から引用した。
 当初は両者とも全く同一の文書だとの松本清張氏や山下文男氏の説明をうのみにしてしまい、山下文男「共・創会談記」のみの引用に留めていたが、noteの拙文を一つにまとめるにあたり今一度双方の協定文書を確認したところ、互いの文書で相手を先に記していたり、同文でなかったり特に創価学会側の聖教新聞による協定の紹介では押印につき宗教法人創価学会印、日本共産党中央委員会印をただ印とのみ省略していたりしていた。相手を先に記すのは儀礼的な表現だろうし、誤字や送り仮名の有無、読点の打ち方の違いなども協定の内容に影響するものではなかろうが、創価学会の機関紙である聖教新聞の行った宗教法人創価学会印および日本共産党中央委員会印をただ印とのみ記した押印の内容の省略は見過ごせないと感じた。その事実自体が協定締結を公表する時点で、創価学会にはすでに共産党と締結した協定を遵守しようとの意欲を失っていた事を示す証左の一つであると考え、精確を期すためあらためて双方の協定の文書を引用し直すことにした。加えて筆者の横着さ、確認の至らなさの戒めとしたい(’24.3.31訂正と追加 文章の強調は筆者)。

「赤旗」1975年7月28日付、山下文男「共・創会談記」巻末資料222-224頁
創価学会と日本共産党との合意についての協定
 
 創価学会代表野崎勲と日本共産党代表上田耕一郎とは、一九七四年十月末以来、数回にわたって懇談し、それぞれの組織の理念と性格、現在の活動と将来の展望、内外情勢などについて、広範かつ率直な意見の交換をおこなった。
 その結果両者は、創価学会と日本共産党とが、それぞれの組織ならびに運動の独自の性格と理念、さらには立場の違いをたがいに明確に認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、日本の将来のため、世界の平和のため、そしてなによりも大切な日本の民衆、人民のために、それぞれの組織を代表して、左記の事項について合意した。(引用者注 原文は縦書き)                               
 、創価学会と日本共産党は、それぞれ独自の組織、運動、理念をもっているが、たがいの信頼関係を確立するために、相互の自主性を尊重しあいながら、両組織の相互理解に最善の努力をする。                    
 、創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない。
 日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する。                                                 
 、双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない。あくまで話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は、協議によって解決する。                 
 、双方は、永久に民衆の側に立つ姿勢を堅持して、それぞれの信条と方法によって、社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう。
 、双方は、世界の恒久平和という目標にむかって、たがいの信条と方法をもって、最善の努力をかたむける。なかんずく、人類の生存を根底からおびやかす核兵器については、その全廃という共通の課題にたいして、たがいの立場で協調しあう。                                           
 、双方は、日本に新しいファシズムをめざす潮流が存在しているとの共通の現状認識に立ち、たがいに賢明な英知を発揮しあって、その危機を未然に防ぐ努力を、たがいの立場でおこなう。
 同時に、民主主義的諸権利と基本的人権を剥奪し、政治活動の自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃にたいしては、断固反対し、相互に守りあう。                 
 、この協定は、向こう十年を期間とし、調印と同時に発効する。十年後は、新しい時代状況を踏まえ、双方の関係を、より一歩前進させるための再協定を協議し、検討する。

 一九七四年十二月二十八日
創価学会代表 総務 野崎 勲(宗教法人創価学会印)
日本共産党代表 常任幹部会委員 上田耕一郎(日本共産党中央委員会印)

経過について
 一
、日本共産党宮本顕治幹部会委員長、創価学会池田大作会長と、それぞれ旧知の間柄であり、かねてから両者の隔意ない懇談を実現させたいという希望をもっていた松本清張氏の仲介で、昨年十月末、両組織の話し合いがはじまった。(引用者注 昨年とは昭和49年を指す)
 昨年十月三十日、松本氏の立会いのもとに、日本共産党側から上田耕一郎常任幹部会委員、山下文男中央委員・文化部長、創価学会側から野崎勲総務・男子部長、志村栄一文芸部長とで第一回の懇談をおこなった。以来、松本氏宅において、十一月に一回、十二月に五回、合計して二十数時間におよぶ懇談がおこなわれた。
 その間、双方の組織、理念、運動の討議のなかから、それぞれの立場の違いを認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、世界の平和のため、日本の民衆のためにいくつかの合意点を確認することができ、それを文書としてまとめることとなった。
 こうして上田、野崎のあいだで別掲の「日本共産党と創価学会との合意について<ママ>協定」がまとまった。この協定書は、双方の機関にはかられた上、十二月二十八日、両組織を代表して、上田、野崎が署名し、双方の組織による捺印がおこなわれた。
 、十二月二十九日、宮本委員長と池田会長が松本氏宅を訪問し、松本氏をまじえてなごやかに懇談がおこなわれた。
 、なお双方は、協定公表の時期については、協議しておこなうことをとりきめ、今回の発表となった。
(引用者注「日本共産党と創価学会との合意について<ママ>協定」で<ママ>としたところは、「の」が抜けているものと思われる。)

聖教新聞昭和50年7月28日2面、聖教新聞縮刷版通巻80号314頁
日本共産党と創価学会との合意についての協定 
 日本共産党代表上田耕一郎と創価学会代表野崎勲とは、一九七四年十月末以来、数回にわたって懇談し、それぞれの組織の理念と性格、現在の活動と将来の展望、内外情勢などについて、広範かつ率直な意見の交換をおこなった。
 その結果両者は、日本共産党と創価学会とが、それぞれの組織ならびに運動の独自の性格と理念、さらには立場の違いをたがいに明確に認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、日本の将来のため、世界の平和のため、そしてなによりも大切な日本の民衆、人民のために、それぞれの組織を代表して、左記の事項について合意した。(引用者注 原文は縦書き)                               
 一、日本共産党と創価学会は、それぞれ独自の組織、運動、理念をもっているが、たがいの信頼関係を確立するために、相互の自主性を尊重しあいながら、両組織の相互理解に最善の努力をする。(引用文の強調は筆者。共産党側の文書では両組織と記すのみで両組織間とは記されておらず、文書が同一ではない。)                    
 二、日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する。
 創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない。                                                 
 三、双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない。あくまで話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は、協議によって解決する。                 
 四、双方は、永久に民衆の側に立つ姿勢を堅持して、それぞれの信条と方法によって、社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう。
 五、双方は、世界の恒久平和という目標にむかって、たがいの信条と方法をもって、最善の努力をかたむける。
 なかんずく、人類の生存を根底からおびやかす核兵器については、その全廃という共通の課題にたいして、たがいの立場で協調しあう。                                           
 六、双方は、日本に新しいファシズムをめざす潮流が存在しているとの共通の現状認識に立ち、たがいに賢明な英知を発揮しあって、その危機を未然に防ぐ努力を、たがいの立場でおこなう。
 同時に、民主主義的諸権利と基本的人権を剥奪し、政治活動の自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃にたいしては、断固反対し、相互に守りあう。                 
 七、この協定は、向こう十年を期間とし、調印と同時に発効する。十年後は、新しい時代状況を踏まえ、双方の関係を、より一歩前進させるための再協定を協議し、検討する。

 一九七四年十二月二十八日
日本共産党代表 常任幹部会委員 
       上田耕一郎 
創価学会代表 総務 
       野崎 勲  印 
(印の強調は筆者。これでは組織印か個人印かがあいまい。創価学会と共産党との組織間の協定であることを極力矮小化したい意図的かつ姑息な省略だと断ぜざるを得ない。)

経過について
 
一、創価学会池田大作会長、日本共産党宮本顕治幹部会委員長と、それぞれ旧知の間柄であり、かねてから両者の隔意ない懇談を実現させたいという希望をもっていた松本清張氏の仲介で、昨年十月末、両組織の話し合いがはじまった。(引用者注 昨年とは昭和49年を指す)
 昨年十月三十日、松本氏の立ち会いのもとに、創価学会側から野崎勲総務・男子部長、志村栄一文芸部長、日本共産党側から上田耕一郎常任幹部会委員、山下文男中央委員・文化部長とで第一回の懇談をおこなった。以来、松本氏宅において、十一月に一回、十二月に五回、合計して二十数時間におよぶ懇談がおこなわれた。
 その間、双方の組織、理念、運動の討議のなかから、それぞれの立場の違いを認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、世界の平和のため、日本の民衆のために、いくつかの合意点を確認することができ、それを文書としてまとめることとなった。
 こうして野崎、上田のあいだで別掲の「日本共産党と創価学会との合意についての協定」がまとまった。
 この協定書は、双方の機関にはかられたうえ、十二月二十八日、両組織を代表して、野崎、上田が署名し、双方の組織による捺印がおこなわれた。
 二、十二月二十九日、池田会長と宮本委員長が松本氏宅を訪問し、松本氏をまじえてなごやかに懇談がおこなわれた。
 三、なお、双方は、協定公表の時期については、協議しておこなうことをとりきめ、今回の発表となった。
 

 松本清張氏は、「『仲介』者の立場について」で、宮本・池田会談を提唱した動機、お互いが認め合っており、理解しあえる余地があるはずで、選挙のたびに両組織の末端で無用な紛争が起こるのは国民のために何ら益のないことと思ったことや、仲介者は自分でなくても渡辺恒雄氏、草柳大蔵氏など他にも宮本・池田対談の提唱者がいたことなどをあげ、協定の締結から公表まで半年以上の間があったこともどちらかの「政局」ゆえの事情があったに過ぎず、秘密にする意図などないとして、「私の書いた経過とともに、『協定書』の全文を虚心坦懐に読まれることを望みたい。」とした。     松本清張「仲介」者の立場について 東京新聞 1975年8月9日 松本清張 社会評論集 講談社文庫所収 昭和54年(1979年)10月15日 第1刷発行

 ただ協定書の締結から50年近く経過した現在では、松本清張氏の希望通りに全文を虚心坦懐に読もうと思っても、「創価学会と日本共産党との合意についての協定」がいかなる内容だったのか、まず原文を確認すること自体が難しい。筆者は協定締結の日本共産党側の当事者だった山下文男氏の「共・創会談記」にたどり着いてようやく原文を確認することができた。しかも、創共協定について創価学会側の資料は乏しく、ほとんどないと言いたいくらいで、かろうじて「創価学会年表」で、共産党と協定を結んだことに触れている。「新・人間革命」22巻に至ってはわずか2頁足らずの言及があるだけだった。かつて共産党と協定まで結んだ過去を語りたがらない創価学会の姿勢についての評価はのちに述べるとして、ともかくこのnoteの読者の方にも松本清張氏の言うように「『協定書』の全文を虚心坦懐に読まれることを望みたい」し、そのことにいささかでも役に立てたら困難な仲介の労をとられた松本清張氏の恩にほんの少しでも報いることができるような気がする。そんな大げさでないにしても、忘れてはいけない先人の努力だと思うし、現在でもこの協定につき論じることは意味のあることだと筆者は考える。勿論、現在において今からでも創価学会は多大な反省をすべきだし、日本共産党と、松本清張氏に対する真摯な謝罪がなされる必要があることも論じていきたい。

(注)創価学会側の資料として聖教新聞縮刷版 昭和50年7月~8月 通巻第80号 昭和50年10月1日発行 聖教新聞社 がある。昭和50年7月28日の紙面に協定の全文と経過についてが掲載されている。ただし、翌日(7月29日)の紙面には秋谷副会長(当時)の談話、いわゆる秋谷見解が掲載され、「共闘なき共存」が強調される。こうして創価学会では、公表即空文化の動きで、あたかも共産党との協定などはじめから結ばなかったかのような扱いになっていってしまった。

 協定締結の動機

 昭和43年(1968年)に文藝春秋誌で松本清張氏と池田大作創価学会会長(当時)が対談。以来、何度か対面する機会があり、宮本顕治共産党委員長とも知己だった松本氏が機会があれば宮本委員長といちど懇談してみてはと池田会長に勧めたと。他、対談に至る経緯を含め、事の顛末は、松本清張「『仲介』者の立場について」東京新聞 昭和50年(1975年)8月9日 のち 松本清張 「松本清張社会評論集」所収 講談社文庫(昭和54年 1979年)、「『創共協定』経過メモ」松本清張「作家の手帖」所収 文藝春秋(昭和56年 1981年)と山下文男「共・創会談記」新日本出版社(昭和55年 1980年)を読めば充分理解できる。特に「共・創会談記」は詳細。創価学会側の資料は乏しく「対論 日本における政治と宗教」野崎勲 高瀬廣居 財界通信社 (1995年)、「私の愛した池田大作」矢野絢也 講談社(2009年)、野崎氏は創価学会側の交渉当事者、矢野氏は公明党書記長(当時)として協定に対応しており(ただし、協定を骨抜きにするのだが)、参考になる。

 創価学会内部の動きや創価学会と公明党の協定の対応については資料が乏しい。新・人間革命22巻で2頁足らず、野崎氏も「対論 日本における政治と宗教」でわずかに語るのみ。しかも同書は協定に言及しているのに肝心の協定の説明を1頁ですませ、全文の引用すらしていない。矢野氏の記述も公明党からのもので、そこから創価学会内部の動きを推測しうるに過ぎない。このように創価学会側に協定についての詳細な記録がないのは理由があると考えてよい。現在では公然と暴力革命政党だとかハイエナとまで罵倒、敵視している共産党とかつては相互理解に最善の努力をする、お互いに誹謗中傷しないなどと約束した協定を結んだ過去があることなどもう世間に、というか現在の会員によほど知られたくないのだ。

協定に関わった人物と昭和49年当時の年齢

 当時の創価学会、日本共産党の主な人物の昭和49年(1974年)、協定締結時における立場及び年齢を参考のため記しておきたい。年齢は、特に創価学会・公明党側の人間関係を把握するために関係者の当時の年齢を確認しておくことは有用だと筆者は考える。

仲介者 
松本清張 作家(1909-1992)65才 

日本共産党 
宮本 顕治 日本共産党委員長 (1908-2007) 66才
上田 耕一郎 共産党交渉当事者 日本共産党中央委員(1927-2008)47才
山下 文男 共産党交渉当事者 日本共産党文化部長(1924-2011)50才
不破 哲三 日本共産党書記局長 上田 耕一郎の実弟(1930- )44才

創価学会 
池田大作 創価学会会長(1928-2023)46才
野崎 勲 創価学会交渉当事者 創価学会総務 男子部長 (1942-2004) 32才 志村栄一 創価学会交渉当事者 創価学会文芸部長 潮編集長 (1942- ) 32才北条 浩 創価学会理事長・副会長(1923-1981)51才           秋谷 栄之助 創価学会副会長(1930- )44才
公明党 
竹入義勝 公明党委員長、衆議院議員 元総務(1926-2023)48才
矢野絢也 公明党書記長、衆議院議員 元総務(1932- )42才

 このようにみてみると、当時32才の野崎氏がいくら優秀で、学会の知恵袋、有力な次代の会長候補と言われていたとしても、50才前後の上田・山下氏の共産党側に対し、交渉当事者として若輩感は否めないのではないか。北条・秋谷、竹入・矢野の各氏などよりも一回りかそれより下になり、創価学会の代表として適切な人選だったといえたのか、疑問に思える。しかし、野崎氏に交渉を担当させたのは池田会長の意向であった。ただ、若手の筆頭格とはいえ、野崎氏の昭和49年当時の創価学会内での立場は、昭和40年聖教新聞社入社、昭和44年創価学会本部勤務、昭和47年12月に男子部長に抜擢されて2年足らず、会内に先輩幹部は数多おり、対する上田氏は共産党のナンバー3くらいか、格が違うと言えば違うはず。ただ、その点で共産党側が難色を示したということはなく、池田会長が上田氏を交渉役として指名するあたりも「いい線をいいますね」が同じ共産党の山下氏の評価だった。実際、松本氏、山下氏の交渉経過を読む限り野崎氏は上田氏とよく渡り合ったというべきなのだろう。むしろ、その後の顛末において創価学会内部や公明党の竹入・矢野氏等の先輩たちに対してこそ野崎氏の若さは仇になったというべきなのかもしれない。

交渉前夜 昭和49年までの経緯

 竹入・矢野氏は言論出版妨害事件ののち、創価学会の組織改革により、党と学会の役職の兼任を解き、学会の役職(2人とも総務)を辞退(昭和45年1月)、同時期に学会は昭和45年、副会長制を敷き、北条、秋谷、森田の3氏が就任、北条氏はその後、昭和49年、再び理事長に、副会長と兼任(理事長だった和泉氏は副会長に)。協定締結時の創価学会副会長は、北条浩、秋谷栄之助、森田一哉、和泉覚、青木亨、福島源次郎、山崎尚見、の7氏。野崎勲氏は男子部長・総務。公明党議員の創価学会役職兼任解消により、創価学会と公明党との意思疎通が疎遠になったことは否めなかっただろう。池田会長の公明党、竹入・矢野氏への不信感、不満の背景には政教分離したがゆえに公明党に口出ししにくくなり、党なかんずく竹入・矢野は好き勝手やっているとの認識が池田会長にあったことが考えられる。緊密な連携、あるいは逐一指示するといったようなことができなくなり、疎遠になったが故の疑心暗鬼とでもいうべきか。

 昭和49年の協定の前段階として言論出版妨害事件当時(昭和45年前後)も、松本清張氏、五島昇氏(東急創業者五島慶太長男、東急社長)などが宮本・池田対談を提案したが実現せずと。矢野氏によれば、池田会長の謝罪発言の前に(昭和45年5月3日以前)対談が試みられ、その際、共産党からか仲介者からかは不明だが、①言論妨害を認め、謝罪する②政教分離or自民党寄りを改める③竹入委員長の辞任、の条件が出され、矢野氏は大将の首を差し出すことなどできないと反対し、竹入委員長更迭後の後任の打診も断ったと述べている(「私の愛した池田大作」186頁)。松本清張氏は昭和50年の4年くらい前に対談の動きがあったが当時は条件がそろわず断念、それ以来手を引いていたと述べ(「松本清張社会評論集」127頁「作家の手帖」298-299頁)、共産党の側も言論・出版妨害事件が一応おさまった後のこととして対談の動きがあったが時期尚早と返事し実現せずと述べている(山下「共・創会談記」14頁)。松本清張氏と山下文男氏の記述は時期もほぼ符合している。矢野氏の記述はそれより一年程早いが、提案者も松本氏、五島氏とおり、対談の動きも複数回試みられていたようなので、言論出版妨害事件のころの一連の対談の動きをそれぞれ記したものといえそうである。ただ、野崎氏は言論出版妨害事件のころの会談の動きに触れず、時期尚早として実現しなかった対談の時期を昭和49年の夏、秋の出来事としており、(「対論 日本における宗教と政治」89-90頁)筆者はこの記述が事実か、疑問を持っている。

 昭和49年の協定締結の際に創価学会が公明党にすら内密に交渉を進めたのは言論出版妨害事件の頃に企図された会談が流れた経緯があったからではないか。池田会長は公明党、特に竹入委員長が共産党との交渉の動きを知ると反対し、故に交渉ができなくなるとふんで公明党に内緒で話を進めたのではないだろうか。そうだとすればなぜ北条、秋谷氏ではなく若手の野崎氏に交渉を担当させたのかも理解できるように思える。北条、秋谷氏に交渉をさせればそのことが否応なく公明党の竹入、矢野氏に漏れると思い、それを嫌ったのだろう、池田会長は。

 また昭和49年の対談のきっかけも志村氏(当時、第三文明社発行の月刊誌「潮」編集長)から松本清張氏に持ちかけたもので、これも池田会長の意向であった。創価学会側の交渉担当者として野崎氏を充てたのも、共産党の交渉担当者として上田氏を指名したのも池田会長とのことで、このことに関し松本清張、山下文男氏のどちらの記述も同じ内容で、食い違いはない。この点も新・人間革命は松本清張氏の勧めとだけ述べ、池田会長の意を受けた志村氏の呼びかけであったこと、すなわち創価学会の側からの働きかけであったことに触れない。野崎勲「対論 日本における政治と宗教」も。さらに野崎氏は同書で上田耕一郎氏の名を松本氏が共産党の交渉者として考え、挙げたように述べている(90頁)がこれは、松本、山下両氏の著作の記述と矛盾する。野崎氏の記述は創価学会側から交渉を呼びかけた事実を隠すために、共産党の交渉者として池田会長が上田耕一郎氏の名を挙げたのを松本清張氏が挙げたかのように意図的にすりかえた記述で虚偽だと筆者は判断している。

 このように、創価学会が引き起こした言論出版妨害事件のころ(昭和45年前後)の対談の動きに触れず、昭和49年の対談も創価学会側からの働きかけだった事実に創価学会や野崎氏がふれないのには理由がありそうである。言論出版妨害事件を引き起こし、徹底的に批判された過去から、共産党からの厳しい批判を何とか封じたいという会談の呼びかけの動機・思惑をみすかされるのが嫌だからではと筆者は推測している。そうだとすれば、宮本委員長との対談を望んだ池田会長の思惑は、共産党からの厳しい批判をどうにかして防ぐことができないかというようなもので、初めから次元の高い崇高な動機などではなかったのではないか。あるいは、政教分離で意思の疎通を欠き、池田会長の眼からは右に寄りすぎたとみられる公明党の路線を、共産党と協定を結び、そのことを既成事実として公明党に承認させることで党の路線を変更させ、もって竹入・矢野氏の執行部を交代させるといった、政治の主導権を公明党から池田会長が自らに取り戻す目論見だったのか。協定が実際に機能しなかった故か締結から四十数年が過ぎてもいまだ定説は定まっていないようにみえる。

交渉の経緯 昭和49年10月20日~12月28日・29日          ー1974年 第一次オイル・ショックの真っただ中ー

 野崎・志村両氏は交渉当初の強気で楽観的な姿勢から徐々に悲愴感を帯びていく。二人とも池田会長の求心力・指導力を過信、交渉を楽観視し、公明党や池田会長以外の創価学会執行部の反対を予想していなかったようだ。たとえば松本清張氏に共産党との対談につき公明党を説得できるかと懸念を示されても、志村「公明党のほうはなんとかなる」と(松本清張「作家の手帖」文藝春秋 299頁)。また先輩だらけの公明党にも辛辣で、野崎「(公明党は)会長の考えていることからみると次元が低い。」(同書303頁)と切り捨て、公明党の反共からの方針転換も、野崎「公明党を新しい学会の方針に従わせるには時間がかかる。しかし、必ず実現させる」と(同書304頁)。説明には明らかな虚偽も含まれる。野崎「会長も(政教)分離以来一度も公明党幹部と会っていない。」(同書302頁)と言うのだが、これは矢野氏の著作から定期的な面会、会食が昭和45年の言論出版妨害事件の謝罪・党と学会の役職兼任解消以降も続いていたことが明かされており(島田裕巳 矢野絢也共著「創価学会もうひとつのニッポン」講談社 125頁)、「政教分離」の体裁を取り繕うためのウソ、か。たまに会食する程度には会っているで別に問題なかったのではと思うが、党のことは党に任せると言っておいて、その後も会っていれば、何らかの指示を出しているのだろうと勘繰られるのが嫌だったのだろうか。池田会長に傷をつけたくない一心からだとしても、実際指示も出しているのだから取り繕っても意味がない。あるいは共産党や松本清張氏から池田会長に対して協定を認めるよう直接公明党を説得してほしいなどと言わせないための予防線だったのかもしれない。

 ただ、交渉過程での野崎・志村氏の姿勢の変化は両氏の見通しが甘かったというより、両氏のみならず松本清張氏も宮本委員長も池田会長さえ合意すれば、会長の鶴の一声で創価学会はもちろん公明党もどうにでもなると思っていた節が窺え、それどころか当の池田会長自身も自らが結んだ協定をのちに骨抜きにされるほど周囲に反対されるとは考えていなかったように思える。実際、昭和49年12月29日、協定締結の翌日、宮本委員長との対談時、池田会長は松本清張氏と宮本委員長に協定の件について「北条はびっくりしたが、諒承した。学会幹部もこれに従うだろう。これで学会は協定の線に固まると思う」(松本清張「作家の手帖」332頁)と述べた。しかし、その翌々日(12月31日)には竹入委員長、矢野書記長に協定締結の知らせが入り、そこから協定を骨抜きにするべく猛烈な巻き返しが始まる。昭和50年頃には、言論出版妨害事件で謝罪に追い込まれ、党と学会を組織分離してすでに5年が過ぎており、池田会長が言うように党に独自の実権ができていて、池田会長の指導力・求心力は本人が思っていた以上に落ち込んでいたとみるべきなのか。

 池田氏の会長就任後、破竹の勢いで伸張した創価学会であったが、昭和45年以降、言論出版妨害事件の責任問題が尾を引き、池田会長は自身の会長辞任を避けるべく竹入委員長を更迭しようと試みたがうまくいかず(注)、そのうち日中国交回復がなり、国交回復に尽力した竹入委員長を辞めさせる大義名分もなくなる。そこで、政治の玄人らしくはなったものの、結党当初の理念を失ったかにみえた公明党の現状にも不満を感じていた池田会長が、松本清張氏の仲介を渡りに船とばかりに共産党との交渉を仕掛け、人事も含めた公明党の路線変更をもくろみ、もって言論出版妨害事件で損なわれた自らの指導力を回復しようとした。そのために、反共姿勢が明確だった公明党の竹入委員長が共産党との交渉を知れば反対することが容易に予想されるので、北条・秋谷氏といった竹入・矢野氏のカウンターパートにあたっていた会内の実力者を避け、若手で頭角を現してきた野崎氏を共産党との交渉に抜擢した、と筆者はみる。

 あるいは昭和45年から54年までの一連の池田会長の辞任への流れとみるべきか。昭和54年の池田氏の創価学会会長の辞任は、52年路線(日蓮正宗との確執)だけが原因ではなかったはずで、言論出版妨害事件、本尊模刻事件、創共協定、52年路線と、この時期の池田会長は打つ手打つ手が裏目裏目でうまくいかなかったようにもみえる。この頃の池田会長の急進的な振舞いには、青年部はともかく、同世代の執行部、公明党首脳はついていけなかったということなのだろうか。たとえば言論出版妨害事件では証人喚問を避けるため、会長(私)を守れと周囲にあたりちらしたと。初めて見せる醜態に側近幹部たちの失望、幻滅、求心力の低下があり、ひいては後の会長辞任につながっていった、と考えることもできるのではないか。

対照的な創価学会と共産党の交渉姿勢 使者と委任

 共産党は上田・山下氏に交渉を任せ、宮本委員長、不破書記局長も交渉の経緯を把握しており、宮本委員長は、要所で上田、山下氏に的確なアドバイスをしている。組織としても常幹会議=常任幹部会会議、幹部会会議でも報告などされ、交渉当初から共産党全体の議題、検討事項として扱っていた。協定締結後、第五回中央委員会総会にて「共創会談」の経過を報告、締結された協定を総会にて承認(昭和50年1月18日)。きちんと内部手続きも踏み、組織として意思統一したうえで協定に対処している。対して創価学会の側は池田会長が野崎氏に全て任せると言いつつも肝心の権限がないかのようだ。池田会長は執行部に諮らず、独断で野崎氏に交渉させた模様で、野崎氏は北条理事長にも協定締結直前にしか話していない。「この予備会談は北条副会長にだけは報告する。(野崎)」と(松本清張 「作家の手帖」322頁)。公明党には締結後の事後報告で後の祭りだった。後輩(野崎)に自らの頭越しの交渉では竹入・矢野氏の強い不満もやむなしか。創価学会内では共産党との協定締結が野崎氏の手柄となることへの先輩幹部の嫉妬・警戒もあったはずで、組織として協定に対処していなかったことが、のちにはしごを外されたり、協定を空文化したりするなど反対派が工作する余地を残してしまった。ただ、やはり公明党に事前の根回しもなく創価学会が共産党と交渉してうまくいったかは疑問で、結局いかんともしがたかったというべきなのかもしれない。

 協定締結直前まで尾を引いた創価学会の公明党一党支持問題。交渉は暗礁に乗り上げ、破談寸前だった。この問題を突き詰めていくと、協定は成り立たず、結局、協定の文言に直接、明示しない形で落とし込まれる。「三、双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない。」と。この文言をのちに創価学会は共産党が創価学会の公明党支持につき、批判しないと認めたと解釈し、共産党はそれを否定した。(強調は筆者)

 それが故、協定の締結はなった。たしかに協定を破談させず、締結に導くための苦肉の策だったのだろうが、この時にもっと突き詰めて考えるべきだったのではなかったか。共産党の懸念こそ正当なものだったのではないか、と筆者は感じている。現在も会員の政治活動の自由より優位にあるかたちで創価学会の公明党支持が行われており、理由付けはともかく事実上、創価学会や公明党の政治姿勢、政策判断に異議を唱える会員を処分、除名等の手法で排除し続けていることを仄聞するたび、会員の政党支持は自由という建前とのあまりの乖離に情けなく思う。会員の政党支持は自由という言葉の意味を現在の創価学会・公明党の首脳はどう理解しているのか。団体としての創価学会・公明党の政治的主張に反しない限りという制限がついたものなのだとすれば、それは自由とは言わない。

(注)竹入義勝公明党委員長は昭和45年、池田会長の言論出版妨害事件についての謝罪表明の直後にいったん辞意を表明している。言論出版妨害事件のけじめということだろう。その際、公明党委員長辞任に至らなかったのは、もし竹入委員長が公明党委員長を辞すれば、公明党から仲介を頼み、藤原弘達氏に著作の買取を提案して断られた自由民主党の田中角栄幹事長の責任問題にまで波及するので思いとどまらせるような動きが自民党田中派の側からあったようだ。昭和47年に田中角栄氏は首相に就任している。昭和45年当時、佐藤栄作氏の次の首相の有力候補であった田中幹事長に傷をつけるようなことは避けたかったはずで、創価学会・公明党としては借りを作った田中角栄氏に迷惑をかけられない。よってこの時点での竹入氏の公明党委員長辞任は立ち消えになったのだろう。そしてそのことに池田会長は本音では不満だったのだろう。(昭和45年の竹入委員長の辞意表明については、「創価学会年表」 631頁 聖教新聞社 1976年7月3日発行、「創価学会・立正佼成会」室生忠著 64頁 三一書房 1979年1月31日第1版第1刷発行、「新公明党論」 河田貴志著 50頁 新日本新書 1980年3月30日発行、等を参照)

協定締結から公表まで

 協定の締結が昭和49年12月28日、社会に公表したのが翌昭和50年7月27日。協定の締結から公表まで「半年以上の間」があいたことをどちらかの「政局」ゆえの事情と松本清張氏は説明した。協定を結んだ事実につき共産党は早く公表をと、対して創価学会は公表を渋る。共産党との交渉を公明党にすら内密にしていた手前、公明党との調整に時間が必要だったことと、昭和50年4月の地方選挙を混乱なく終えるため、この時点では共産党と協定を結んだことを末端会員に知らせたくなかった事情、すなわち創価学会側の事情が松本清張氏の言う「政局」と思われる。

 事前に共産党との交渉を知らされていなかった公明党竹入委員長・矢野書記長。昭和49年の大晦日、暮れの挨拶の電話をしてきた矢野氏に竹入氏は、共産党と学会との間で協定を結んだと北条氏が告げに来たといい、「竹入さんは、どれくらい反対ですか」と問う矢野氏に「俺は五百パーセント反対だ。北条さんにも『池田先生は頭がおかしくなったんだ』って言ったら、『先生のされることに反対なら破門だ』と言われた」と。(矢野絢也「私の愛した池田大作」183頁)北条氏は竹入氏に激怒し、秋谷、野崎氏が矢野氏の説得を試みたが、結局、公明党の説得は不調に終わる。むしろ秋谷副会長なども竹入・矢野氏に同調し、野崎・志村の両氏は、はしごを外されることになってしまう。公明党執行部の判断は共産党と協定を結べば、警察・公安に警戒され、自民党や財界との関係もうまくいかなくなるので反対だというものだった。結局、創価学会は協定締結後、公明党の説得が不調に終わり、締結から公表までの半年ほどの間に協定の遵守、実行ではなくいかにして調印・締結した協定を反故、骨抜きにするかという方向に向かってゆく。共産党の山下氏は後からいわれればといった不可解な創価学会側の態度に翻弄されることになるのだが、その真相はこの時点では知る由もない。今一度、締結された協定を引用しておく。今度は筆者が強調したい部分を太字にして。

創価学会と日本共産党との合意についての協定
 創価学会代表野崎勲と日本共産党代表上田耕一郎とは、一九七四年十月末以来、数回にわたって懇談し、それぞれの組織の理念と性格、現在の活動と将来の展望、内外情勢などについて、広範かつ率直な意見の交換をおこなった。                              
 その結果両者は、創価学会と日本共産党とが、それぞれの組織ならびに運動の独自の性格と理念、さらには立場の違いをたがいに明確に認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、日本の将来のため、世界の平和のため、そしてなによりも大切な日本の民衆、人民のために、それぞれの組織を代表して、左記の事項について合意した。(引用者注 原文は縦書き) 
 、創価学会と日本共産党は、それぞれ独自の組織、運動、理念をもっているが、たがいの信頼関係を確立するために、相互の自主性を尊重しあいながら、両組織の相互理解に最善の努力をする。
 創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない。
 日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する。
 双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない。あくまで話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は、協議によって解決する。
 四
双方は、永久に民衆の側に立つ姿勢を堅持して、それぞれの信条と方法によって、社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう。
 五
双方は、世界の恒久平和という目標にむかって、たがいの信条と方法をもって、最善の努力をかたむける。なかんずく、人類の生存を根底からおびやかす核兵器については、その全廃という共通の課題にたいして、たがいの立場で協調しあう。
 、双方は、日本に新しいファシズムをめざす潮流が存在しているとの共通の現状認識に立ち、たがいに賢明な英知を発揮しあって、その危機を未然に防ぐ努力を、たがいの立場でおこなう。同時に、民主主義的諸権利と基本的人権を剥奪し、政治活動の自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃にたいしては、断固反対し、相互に守りあう。 
 この協定は、向こう十年を期間とし、調印と同時に発効する。十年後は、新しい時代状況を踏まえ、双方の関係を、より一歩前進させるための再協定を協議し、検討する。

一九七四年十二月二十八日                      創価学会代表 総務
 野崎勲 (宗教法人創価学会印
日本共産党代表 常任幹部会委員
 上田耕一郎 (日本共産党中央委員会印)              山下文男「共・創会談記」223‐224頁(引用文の強調は筆者)

同床異夢、あるいは呉越同舟の異夢

 協定が結ばれ、まず10年間、相互の協力が始まるものだとばかり思っていた共産党の上田・山下氏、仲介者の松本清張氏を翻弄するように創価学会、野崎・志村氏の態度が変わっていく。協定を守るより、いかにして反故にするかというように豹変していく。

創価学会側の信義にもとる態度   

 昭和50年1月、野崎氏は公明党に内緒で交渉していた手前、事前に交渉を知らされていなかった竹入・矢野氏の反発を和らげるためと思われるが、協定締結の日時を発表時にずらせないかと突如提案する。共産党の上田氏は「歴史的事実だから、それはできない」と、この提案を断る。

 7月、野崎氏は、発表用の協定を別につくれないかと提案。共存するが共闘はしない、創価学会は公明党を支持し、その点につき共産党は批判しないとの一文をどうしても入れたいと。共産党の上田氏は「条文と違うものを出すことはできない」と断る。当たり前だろう。自分が交渉し、難産の末生み出し両者調印まで済ませた協定をなんだと思っているのか。まして相手があることなのに身勝手な言い分。上田氏「彼ら協定を結んだことで責められているのではないか」山下氏「会長の指示があって、北条理事長も了承してのことなのに、われわれにはわからないことだ」と(山下文夫「共・創会談記」107頁)。山下氏の疑問はもっともと思う。

 協定発表後の8月、宮本委員長の「渡米中の池田氏から、人を介してだが、どんな雑音があっても協定の精神を守ろうという伝言があった」との発言につき、「雑音」を秋谷見解を指してのものだ、池田会長の私信を勝手に公にするのは失礼だ、そもそも「雑音」など言っておらず、不正確な引用だと野崎氏は激昂する。「会長もわれわれ二人も苦境に立たされている。どうしてくれるのか?」「折角うまくいっていたのに、あの国際電話問題でメチャクチャになった。二人で毎晩やけ酒を飲んでいる」「協定の実行が三年おくれた。」と、情けない言辞を弄する。伝言を紹介したくらいでメチャクチャになる程度の脆弱な信頼関係なら相互理解の努力など望むべくもない。現に取り付く島もないほどの激昂で、会って話そうと言っても応じない。もはや協定を破棄せんがための言いがかり、無理筋の批判。信義、信義と居丈高に非難するわりに、日付をずらせ、発表用の協定を別に、言葉じりをとらえた難くせ、など創価学会の側にこそ信義、誠実さが見られない。松本清張氏も協定公表前後の頃の記述はもはや野崎、志村氏に対して不快感を隠そうとしない。

協定発表前のクッションとして、毎日新聞で池田・宮本対談、のち「人生対談」毎日新聞社(毎日新聞は協定発表後、自分たちの媒体が協定のために利用されたと怒るのだが)。

青木談話で「政治抜き」を強調

聖教新聞 昭和50年7月16日 青木副会長の談話
人間次元で平和・文化語る                    
「池田・宮本対談について」                     
 池田会長は、さる十二日、日本共産党幹部会委員長・宮本顕治氏と、長時間にわたる人生対談を行った。これは毎日新聞の連載企画にこたえたもので、話題も政治抜きに組織論、人材論、文学論など幅広い分野にわたり、人間対人間の対話ともいうべき、有意義なものであった。しかし、この対談について、一部では、公明党との関連などから、誤解や憶測を含む、さまざまな議論が取りざたされており、ここに、正確な認識をもたらすために、仏法者としての我々の基本的考え方を、更に明確にしておきたい。          
「仏法を基調とした平和・文化の推進団体」としての学会の立場は、いまや世界的なものとなっている。そのさい、最も重要なことは、人間という普遍的原点に立って、だれとでも自由に話し合い、理解し合い、そのなかから確たる平和の基盤を築き上げるという根本姿勢であろう。池田会長の先駆的な平和旅はその典型的な行動であるといってよい。
 会長は、自由主義者であろうと、中国の周恩来首相、ソ連のコスイギン首相らの社会主義者であろうと、きたんなく、平和構築への構想を語り合っている。今回の宮本委員長との対話も、その一環にほかならない。
 こうした我々の姿勢を、一言にしていえば、人間次元の立場であるということができる。これは、政党間の関係、抗争といった政治的次元とは、明確な一線を画するものである。一部では、今回の対談について、政治的意図をうんぬんする論調がなされているが、その致命的誤りは、この人間次元と政治次元との混同にある。平和構築の要諦が、人間と人間との打ち合いと触発のなかにこそあるという人間次元の我々の立場は一貫したものであるし、今後ともかわることはない。対談が政治抜きに行われた理由も、ここにある。
公明党支援は変わらず                        
 もとより人間次元におけるこの共存はなんら組織的共闘を意味するものではない。
我々はマルクス主義者ではないし、互いに自由に自らの目標とする路線を進んでいくことは当然であろう。したがって今回の対談によっても、学会が今後とも公明党を支持していくことに全くかわりはない。また政治次元における、公明党と共産党との間の政策論争は、政党として自由であり、それに干渉するつもりもない。この対談も、公明党の政治路線の展望を語ったものではないのである。
 会長が対談に応じたのは、各紙で自身語っているように、宗教団体である創価学会と、共産党との間に無用の摩擦、泥仕合を生ずることは、学会員を政争の具に供することであり、それが人間的憎しみにまで発展することは仏法者として望ましいことではないと考えているからである。
 日蓮大聖人が「妙とは蘇生の義なり」といわれているように、仏法というものは、あらゆる思想・哲学・文化を生み出した人間生命の根源に光をあて、よみがえらせていくという点に、最大の特徴があるといえよう。今から二十年近く前、いわゆるハンガリー問題で世間が騒然としていた時、戸田前会長は次のように述べた。「民主主義にもせよ、共産主義にもせよ、相争うために考えられたものではないと吾人(ごじん)は断言する。しかるに、この二つの思想が、地球において、政治に、経済に、相争うものを作りつつあることは、悲しむべき事実である。ー吾人らが、仏法哲学を広めて、真実の平和、民衆の救済を叫ぶゆえんは、先哲の平和欲求の精神を、どこまでも実現せんがためである」と。
 思想や哲学が、生みの親ともいうべき、人間の手を離れ、独走し、かえって人間そのものを犠牲に供しかねないのが、古今の通例である。その、人間の業ともいうべき"格子なき牢獄"から人間を救出し、生命尊厳の当体として輝かせていくことこそ、仏法者の崇高な使命であるといってよい。池田会長が、第三十六回本部総会での講演で「たとえ私どもと異なった思想、意見をもった人々であったとしても、もしその人たちが暴虐(ぼうぎゃく)なる権力によってその権利を奪われ、抑圧されそうな時代に立ちいたったときには『人間の尊厳の危機』を憂えて、断固、それらの人々を擁護(ようご)しゆくことを決意しなければならない」と述べているように、人間を守り、人間性の真実に光をあてていくという一点は、学会・五十年の歴史を通じて、一貫して変わらぬ基本精神なのである。 
 時流に目をこらすならば、宗教も社会主義も、この人間の真の幸福という原点を忘れては、もはや存在意義ももたず、時の流れのなかで淘汰(とうた)されてしまうという本質が、浮かび上がってくるはずである。我々は、その時代の最先端をゆく人間原点の宗教こそ仏法であることを確信し、将来にわたって、創価主義の大道を歩みつつ、人類の平和・文化の建設に貢献していきたい。(副会長 青木 亨) (引用文の強調は筆者)

協定公表翌日の火消し いわゆる秋谷見解

 協定を読んだうえで、秋谷見解を読んでほしい。また、秋谷見解を読んで協定を読み直してほしい。どのように感じるだろうか。

聖教新聞 昭和50年7月29日
創価学会と日本共産党との「協定」について
秋谷副会長にインタビュー
共闘なき共存へ
相互理解、話し合いで解決
 昨日付本紙に発表した「日本共産党と創価学会との合意についての協定」は、日本の将来にわたって重要な意味をもつものである。そこで「協定」の基本精神、各項目の意義などについて、秋谷副会長に語ってもらった。
 -創価学会と日本共産党の間で「協定」が結ばれたが、その基本的精神について。
 秋谷 まず、二十数年間にわたり、とくに選挙のたびに起きた無用なマサツ、無意味な紛争を解消し、憎しみ合いをやめようということです。お互いに立場の違いを認め、相互の組織と運動の独立を侵さずに共存の可能性を確認したものです。それが何も、共闘を意図するものではないことは、前回の青木論文(七月十六日付)でも既に明らかにしている通りです。      
 また、学会は平和と幸福のため従来以上に全面的に公明党を支援していきます。この「協定」が、政教分離を踏まえて、日本共産党との間に結ばれた以上、公明党の路線にかかわるものでないことは、当然ですし、七月十五日夜の池田会長・竹入委員長の会談で双方合意された諸項目も全く変わるものではない。
 -「信教の自由」についての「協定」の意味は・・・・・・。
 秋谷 これは大変に大きな意味がある。それは「日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する」とうたっている点です。幾多の社会主義国が宗教を敵視し、信教の自由に多くの制限を課してきた実例は、歴史上数知れないものがある。また、信教の自由を一応認めてはいても、いくつかの条件がついている。それを日本共産党中央委員会が、布教の自由を認めて、「いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する」と社会に表明したことは、日本の宗教界に重要な歴史的証言として、将来にわたって日本共産党を拘束していくことになるでしょう。
学会の公明党支援に誹謗中傷行わぬ
 -「協定」の第三項に「双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の誹謗中傷はおこなわない」とありますが、どのようなことを意味しているのですか。
 秋谷 「政治的態度の問題をふくめて」とあるのは、学会が公明党を支援するということに対しても「政教一致である」といった類(たぐい)の誹謗中傷は、いっさい行わないということです。
 -「両組織間の相互理解に最善の努力をする」とありますが・・・・・・。
 秋谷 これは、端的にいえば、憎しみ合い、泥仕合をしないということです。両組織間にまつわるトラブルは、話し合いによって解決するということです。
 -「協定」の第四、五項では、「民衆の福祉の向上」「世界の恒久平和」への努力がうたわれていますが、どのようなことを意図したものですか。
 秋谷 ここで明確にしておかなければならないことは、「それぞれの信条と方法によって・・・・・・」「たがいの信条と方法をもって・・・・・・」とその条件があることだ。学会としては、今までも独自の立場から、これらの人類共通の課題に取り組んできた。今後も、民衆の幸福と平和のための努力は、近視眼的なとらえ方ではなく創価主義を貫く立場で、従来と変わらぬ姿勢で進めていくことになろう。
ファシズムは中道勢力の拡大に
 -第六項に「双方は、日本に新しいファシズムをめざす潮流が存在しているとの共通の現状認識に立ち・・・・・・」とありますが「ファシズムをめざす潮流」とは?
 秋谷 具体的にどの勢力を指すか、というよりも、現代社会の動向のなかに、ファシズムへの危険な潮流がみられるということです。「インフレはファシズムの温床である」といわれているように、長期的、慢性的インフレが、現在、日本列島を覆っていますし"管理社会"といわれる状況への"個"の埋没なども、この兆候でしょう。池田会長が第三十六回本部総会で「私どもがなによりも恐れなければならないのは、現在の様相が、あのナチスの台頭をもたらしたワイマール体制末期の状況に、あまりにも酷似しているという点であります」と述べたように、そうしたファシズムの潮流から"人間の尊厳"を守り抜くことこそ、仏法者の崇高な使命といえましょう。     
 より具体的に言えば「協定」にあるファシズムの危機を未然に阻止するとは、左右の激突を止め、自由と民主主義を守る日本に安定した中道勢力を拡大することが最善の道である。学会は、この立場で、左右を止揚しながらファシズムの危機を食い止めたい。
 -共産党員の人たちが、入会を申し込んできた場合、どうすればいいですか。
 秋谷 我々は、従来から政治的な意図や組織利用の目的で入会することを認めません。今回の「協定」でも前文に「相互の組織と運動の独立を侵さない」とある。もし、そのような意図をもって、組織のかくらんを計るようなことがあれば、それは協定に反することになる。私たちは、一人の人を根底から救う着実な折伏はするが、入会は厳格にとの基本方針を厳守してゆく。
 -世間では今回のことを、創価学会と共産党とが手を結んだ、ととらえる向きもあるようですが・・・・・・。
 秋谷 それは誤りです。今回の協定は、創価学会と共産党が、相互の立場の違いを踏まえつつ、話し合いと理解を重ね、共存の可能性を探ったものであって、組織的共闘を行うとはいっていない。
 -今回の「協定」は、昨年十二月に結ばれたが、それがどうして七か月間も発表されなかったのですか。また、発表以外にまだ、合意事項的なものはありますか。
 秋谷 「協定」である以上、こちら(学会)側が一方的に発表することはできないからです。また、この「協定」以外に何もありません。
 -これによって、公明党の路線が変わるのではないかという意見が一部にありますが・・・・・・。
 秋谷 さきに触れたように、今回の「協定」は、公明党の政治路線の在り方や展望にかかわるものではまったくありません。したがって公明党が、共産党との間で、憲法三原理をめぐる憲法論争を続けていくことは、政党間の政策論争として自由であり、当然のことです。               
 故に、我々も日本の政治の展望を政党間で議論している憲法三原理論争の意義について肯定しています。今回のことによって、公明党の政治路線になんら変わりないことは、公明党幹部も繰り返し明言しているところです。 (引用文の強調は筆者)

昭和50年8月20日 夏期講習会 壮年部代表者集会での池田会長講演 秋谷見解を公式に追認

(前略)一、私が宮本氏と会ったのは、作家の松本清張氏からの再三にわたるすすめがあったからであります。
 今回の「合意協定」についていえば、まず話し合いをしようということで野崎(総務)・上田(日本共産党常任幹部会委員)両氏の間で対話が進められていく過程で生まれたものであります。  
 この話し合いや「合意協定」についての学会としての見解は、すでに聖教新聞紙上で明らかにされている通りである。
 もとよりこの「合意協定」は、これによってなんらかの具体的行動が成立するというものではなく、人類的視野に立って両者が合意できる点を確認したものであります。したがってそこには、十年という長期にわたるタイム・テーブルを設定したし、相互の行動は、あくまでもそれぞれの立場で自由をもつものである。その意義から原則論的な合意点をまとめたものであります。
 したがって、共闘の問題についてうんぬんされているが、宮本氏もそんな低い次元や狭い了見からではないことを私は知っている。我々は日本共産党と共闘する意思はない。またいわゆる国民統一戦線に加わることも考えておりません(大拍手)。
 共産党には共産党の目的と方法がありましょう。我々には「立正安国」という使命がある。すなわち、仏法の信仰をもちながら、人間革命とそれに基づく最高の文化社会の実現という仏法者の目的と方法がある。
 我々はあくまでも我々の立場で平和・文化の建設に、また広宣流布に貢献できるよう、努力を重ねていきたい。
 ここに盛られた緊張緩和(デタント)の精神が、どれだけ深化され、徹底されてゆくかを、十年間にわたって試みていく考えであります。ともかく、宗教と社会主義との共存ということは、まぎれもなく文明論的な課題である。双方、忍耐強く長い時間をかけて努力を続けていくべきものである、というのが、私のいつわらざる心境であります。
一、すでに各所で私の所信を明らかにしたところでありますが、政教分離を前提としたうえでの創価学会と公明党の支援関係は、従来といささかも変わりません(大拍手)。党を支える代表として、党の関係者と会えば、永年の同志、友人として激励もしたいと思っております。           一、また党が国民・社会のために真剣に努力していることは高く評価もしておりますし、今日の大発展を導いてきた現在の党の首脳並びに党員各位に対しては、心から敬意も表します。
 また、党の方針については、党の民主的決定にしたがって思う存分やっていただきたい。とともに、短期間の間に、国民の間に広く定着した中道革新の信頼される国民政党として、更に国民のために成長し、歴史の流れのなかであくまでも国民の願望する方向を志向しながら、更に前進の活躍を祈るものであります。どうか、激動しゆく日本の将来をあやまたないよう、確固たる展望を抱きながら、進んでいっていただきたい。そのためにも、我々はこれまで以上に応援もいたし、また、せねばならないと思っております。(後略)
於 創価大学体育館 聖教新聞 昭和50年8月21日(引用文の強調は筆者)

 公表、即死文化「共闘なき共存」秋谷見解、その後、池田会長も秋谷見解を追認。しかし、共闘なき共存であれば、わざわざ協定を結ぶ必要がない。秋谷見解や野崎氏は、共産党に信教の自由を認めさせたのが重要というが、そのように片務的なものか。ご都合主義ではないか。敵視せずはどうなるのか。池田氏も死文化などしていないと。自らは反故にして、相手の誹謗しないなどの義務のみ言い募る、不誠実な態度といえよう。公明党は従来の反共路線を一層進めると。共産党の不満は当然だがもはや交渉担当者の野崎・志村両氏は雲隠れし、共産党とも仲介者の松本清張氏とも連絡を取れなくしてしまう。問題が起きれば話し合うと協定で定めたのにもかかわらず、話し合いにも応じず。

 池田氏は話す相手によって態度を使い分けている。ものわかりのいい外面、共産党宮本委員長や松本清張氏への態度と、内向きでは超強気・攻撃的に豹変する態度。矢野氏への言動も氏を説得するためあえてのものか。昭和50年1月6日、池田会長のアメリカ行きの前に車中で協定締結後の善後策を話した矢野・池田間の会話。本気で共産党と協力するんですかと問う矢野氏に池田氏は「バカを言うな」「あいつらと本気で仲良くする気なんかあるものか。表面だけだよ。お前よく考えてみろ。自民党と共産党、両方敵に回せるか」「10年間、共産党を黙らせるんだ」と(「私が愛した池田大作」188頁)。あげくのちに池田氏は公明党はもっと共産批判しろと竹入に言おうか、とまで。「自分から協定を結ばせておいて、この二枚舌。ひどい話である。」と矢野氏(同書193頁)。

宮本委員長の皮肉

 青木談話、協定の公表、公表と同時に協定を骨抜きにするような秋谷見解、翌月の池田会長の秋谷見解追認の後、その年(昭和50年)の暮れ、協定締結のほぼ一年後に共産党が第七回中央員会総会決議(1975年12月23日)で「共・創協定の一年間の経過にたって」を発表し(宗教問題についての日本共産党の見解と態度 所収- 51-58頁、1976年9月6日初刷 日本共産党中央委員会出版局)、創価学会と公明党の協定に相反する態度、秋谷見解や公明党の共産党への一層激しい攻撃、等について批判した。ここではのち1980年(昭和55年)に協定は有効として5年後の再協定に言及した池田氏(前年に創価学会会長を辞任、当時は創価学会名誉会長)に対して、その感想を記者に問われた宮本委員長の発言を引用しておく。

問い 四、五日前の新聞に、創価学会の池田名誉会長が、例の創共協定を五年後も延長することがありうるというような発言をしておりますが、どう考えられますか。
宮本 池田さんの発言は大変たくさん出ているので、残念ながら、『現代』などはまだ全部読んでおりませんが、新聞に出たインタビューその他からだいたいの要点を考えますと、池田さんが共創協定は死んでいない、将来も残していきたい、それから社会主義・共産主義と宗教は共存できるものだ、そういうことをいっていること自体は、むしろその積極面に注目したい。しかし、実際の共創協定の現実というのは、なにも解釈の違いがあって、一つは共闘といった、一つは共存といった、それが合わないからということで死文化したということではなくて、発表すると同時に、私どもからいえば理解しがたい態度を創価学会がとり始めた。いろいろな意見の違いがあった場合には、会って話そうということになっているのに、会うこともこばみ、従来の直接の当事者も直接連絡も避ける、そして事実上、共産党批判があの直接の公明党の重点的政策になったことが示すように、協定はふみにじられた、死文化しているというのがわれわれの解釈であります。
 ただ池田氏の発言で、さきほどいった積極面があると同時に、非常に矛盾しているのは、一方においてそういいながら、公明党のいまの路線というのは、これは結構だと万事を肯定するといいますか、これはわれわれからいえば理解できない。共創協定の精神というのは、平和であるとか、反ファシズムであるとか、国民の福祉の擁護であるとか、そして相互の立場の尊重であるとか、共産党排除を明けても暮れてもいうような公明党のいまの反共路線とはおよそ両立しないものなのです。その公明党の路線も結構、竹入氏も結構、共創協定も結構、何もかも結構というのは、あまり大慈大悲がすぎて、われわれ凡人にはわかりかねるというのが感想であります。」
1980年3月13日 日本記者クラブ(「共・創会談記」180-181頁)

 筆者なら吐いたつばを飲めるものかと毒づくところだが、さすがは宮本顕治共産党委員長。「あまり大慈大悲がすぎて、われわれ凡人にはわかりかねる」とは仏法者、池田大作創価学会名誉会長へのこの上ない皮肉だと思う。

創共協定、共創協定についての評価

 私は、この文章の冒頭に「勿論、現在において今からでも創価学会は多大な反省をすべきだし、日本共産党と、松本清張氏に対する真摯な謝罪がなされる必要があることも論じていきたい。」と記した。それは、創価学会のほうから共産党に働きかけておきながら、協定を締結した後に創価学会が公明党の説得ができない、あるいは公明党や創価学会の先輩幹部達からの反対が強い、と自分たちの都合で反故にしようとしたり、協定を骨抜きにしてしまったことにある。公明党との調整は創価学会において行うと約したはず。なのに公明党との調整を放棄、公明党とは政教分離しているからと開き直り、公明党の反共路線を放置し、協定は有効として共産党が創価学会を政教一致と批判しない義務があるとのみいいつのる。あまりにご都合主義な創価学会の態度。また、協定を反故にするため、「共闘なき共存」などという、意味不明な言葉で協定の内容を骨抜きにするような解釈、いわゆる「秋谷見解」を発表し、翌月、池田会長もその内容を追認する講演を行ない、協定は無内容なものと化す。その後、昭和55年(1980年)には、創価学会顧問弁護士であった山崎正友氏により昭和45年の宮本顕治宅盗聴事件が山崎氏主導のもと創価学会により引き起こされたことが暴露されるにおよび、両者の亀裂は決定的なものとなってしまった。協定が締結されただけでほとんど機能しなかった責任の所在は創価学会にある。

 はたして池田大作氏は宮本顕治氏と真剣に対話する用意があったのか。当面の批判さえかわせればよいとの懐柔策だったのではないか。また池田会長は氏の側近として暗躍していた山崎正友創価学会顧問弁護士(当時)が中心となって行った昭和45年の宮本顕治宅盗聴事件を知っていたのではないか。知っていたなら共産党に対して不誠実のそしりは免れない。まして指示までしていれば協定それ自体が謀略というほかない。盗聴事件につき、北条氏が昭和45年の時点で山崎正友氏から報告を受けていたのは矢野氏が記している。(「二重権力・闇の流れ」206頁 文藝春秋 1994年9月1日 第一刷 発行)前述した昭和49年12月29日の松本清張宅での池田会長の宮本委員長、松本清張氏に対する発言(松本清張「作家の手帖」332頁)の、「北条はびっくりした」というのはその辺の事情もからんでいるように思える。北条氏の心労はいかばかりのものだったろうか。

 共産党の山下文男氏は協定締結後、これで肩の荷がおりたと、歴史に残るであろう自身の仕事をかみしめながら祝杯を挙げていた。その後、協定が骨抜きにされてゆくのをどのような思いで見ていたのか。締結後の野崎・志村両氏の態度は変節にしかみえなかったであろう。そのあたりについては「共・創会談記」を読んでほしい。協定締結の過程につき創価学会から公表しない約束だとの批判に対し、山下氏の反論「守るべきは協定そのもの」はもっともで、返す言葉がないはず。それでも山下氏は「共・創会談記」で、「池田、野崎、志村は真剣だった、だますつもりには見えなかった」とも述べている。真面目で誠実な人柄を感じさせる記述で、私の眼にはむしろ共産党の山下文男氏の方が人の好い宗教家のように映る。宗教者は誠実であるべき、と。言葉もない。

 組織対組織の交渉を、総務会等の正規の手続きを踏まず(調印時は総務会に諮ったというも)、青年部首脳のみに諮って相手のある話を進めた独断(意図的であろうが)。創価学会の内部対立、公明党への不信、竹入委員長の更迭をもくろみ、池田会長と青年部で政治に対しての主導権を奪い返そうとし、失敗。求心力を失い、さらに52年路線で辞任へ。池田・宮本対談だけなら、日程調整、対談事項・範囲のとりきめだけならば野崎・志村氏が交渉を担当したままでよかったのかもしれない。しかし、両組織で協定をとなった時点で創価学会は執行部で意思統一し、公明党との事前調整も必要であったはず。この辺は松本清張氏も入れ込み過ぎにみえる。へたに公明党に話さない方が良いと。しかし、共産党が政党である以上、創価学会と共産党との協定は勿論、宮本・池田対談でさえ、一定の政治性を帯びることは不可避だったはず。創価学会と公明党が分離されたといっても組織の末端で活動する人間が同じである以上、やはり創価学会と公明党は一体というべきで、宗教から、政治からといった事柄から眺めた場合の映り方の違いに過ぎず、一方が他方を抜きに何かをしようとしてもうまくいかなかった。それが図らずも露呈したのが創共協定、共創協定の顛末だったのではないか。そして細川連立政権を経て、自公政権から20余年がたった現在からみれば、その是非は別として、協定が頓挫したのも必然だったというべきか。協定が守られていれば、本格的な非自民政権が創価学会・公明党と共産党を軸にして誕生していたかもしれないというのは、あまりに夢想が過ぎよう。また、それは会員を今以上の政治闘争に駆り立てる棘の道であったのでは。信義という意味では協定を貫くべきだったとはいえ、内部に盗聴などを行う連中をかかえていたなら他党との協定をいう前にまず自らの綱紀粛正をしなければ話にならなかった。

 池田大作という人物を尊敬するあまり、氏を無謬の存在として責任を問いたくない人々の中には、秋谷氏や公明党の竹入・矢野氏が池田氏の崇高な構想を理解せず協定を潰したと言い、池田氏を批判せず、秋谷氏や当時の公明党執行部、竹入、矢野氏の責任だと主張する人たちもいる。しかし、彼らは事実を精確に理解していないし、理解しようともしない。率直に事実を精査することから目を背けている。池田会長が8月20日の講演で共産党との共闘も、統一戦線への参加も否定した発言は創価学会の会長として、協定公表の翌日に出された秋谷見解を追認するもので、協定の空文化を認めるものであった。池田氏があくまで協定の実効性を求める立場であったなら、そのような発言はすべきではなかった。協定を反故にする気がないなら、あくまで協定の遵守を呼びかけるのが筋だったはず。公明党の竹入・矢野氏や学会執行部の秋谷・青木氏などの反対や懸念の表明で、池田会長も心変わりしたか当面の批判を封じることには成功し、当初の目的を果たしたと判断しての追認だったのだろう。

結び 兵どもが夢の跡

 北条浩氏、野崎勲氏は既に故人となり、竹入義勝氏も数日前に逝去の報が流れた。生前の竹入義勝氏や、矢野絢也氏は政界引退後、かつての同僚や後輩たちに激しく悪罵され、創価学会を去った。秋谷栄之助(城栄)氏も総括され、会員の目の前で自己批判させられ、あげく会長を追われた。池田大作氏はお元気とだけ伝えられるが、もう何年も表舞台には出ず、たまに聖教新聞で紹介される写真も遠くからのもので本人かどうかも判別できない。現在の創価学会執行部が池田氏の現況につき末端会員に知られたくないし、知らせる気もないのは明らかだ。結局、お元気な池田先生はお元気なはずなのにお元気なまま突然世を去り、亡くなられたにもかかわらず、お元気な池田先生の下でと会合を行ったお粗末さも露呈した。池田大作という人間の尊厳を踏みにじり、彼を慕う多くの人々の哀悼の意を汚しているのは一体誰か。一家和楽の信心の手前、信濃町は池田家の長男と三男の確執を決して認めることはない。ジョージ・オーウェルの「1984」をテキストにしたかのように、今も都合の悪い歴史は次々と書き換えられていき、過去の事実を検証するには多大な労力を割かなければならない。無謬の「歴史」に疑いを持たねば平穏に暮らせようが、その「ムラ」は年々人が減る一方で、もはや永くは続かないとみるべきだ。
 「おもしろうて やがてかなしき鵜舟哉」と矢野氏は芭蕉の句を引く。細川政権時の政局を評した「乱か変か」においてだが、筆者には鵜飼いの鵜と自らを自嘲気味に重ねているようにも読めた。


参考文献

松本清張 「『仲介』者の立場について」東京新聞 1975年8月9日 「松本清張 社会評論集」所収 講談社文庫 昭和54年(1979)10月15日 第1刷発行  松本清張 「『創共協定』経過メモ」文藝春秋 昭和55年(1980)1月号
松本清張「作家の手帖」所収  文藝春秋 1981年3月25日 第1刷

「宗教問題についての日本共産党の見解と態度」 日本共産党中央委員会出版局 1976年9月6日 初刷
山下文男 「共・創会談記」新日本出版社 1980年6月15日 初版

「聖教新聞縮刷版」 昭和50年7月~8月 通巻第80号 聖教新聞社 昭和50年(1975)10月1日発行
「創価学会年表」 聖教新聞社 1976年7月3日発行
「年譜 池田大作」 第三文明社 昭和56年(1981)1月2日 初版第1刷発行      

野崎勲 高瀬廣居「対論 日本における政治と宗教」財界通信社 1995年5月31日 第1刷発行
矢野絢也「私の愛した池田大作 」講談社 2009年12月21日 第1刷発行
矢野絢也「二重権力・闇の流れ」文藝春秋 1994年9月1日 第1刷
矢野絢也「黒い手帖」講談社 2009年2月28日 第1刷発行
矢野絢也「乱か変か 」毎日新聞社 1994年3月1日発行
矢野絢也vs 島田裕巳「創価学会 もうひとつのニッポン」講談社 2010年11月18日 第1刷発行

外山四郎「矢野絢也全人像」行政問題研究所 1981年2月1日
外山四郎 飯塚繁太郎共著「宮本顕治と池田大作」一光社 1975年8月15日 初版
室生忠「創価学会・立正佼成会 新興宗教の内幕」三一書房 1979年1月31日第1版第1刷発行

河田貴志「新公明党論」 新日本新書 1980年3月30日初版
有田芳生「現代公明党論」 白石書店 1985年11月5日 第1刷発行 

追記1 創共協定の動機について 
大石寺の違法手続きによる土地大量取得問題 農地から別の用途への転用は難しく、権利移転や転用には農地法上、知事等の許可が必要。にもかかわらず大石寺は昭和30年以降土地を取得する際、無許可や他人名義等、違法な手続きで取得を重ね、帳簿等もずさんで、正本堂設立の際の土地取得と合わせ対策の必要性が生じていた。昭和49年4月の山崎(正友)・八尋によるレポートでは、大石寺の土地大量取得につき共産党が地元議会等で取り上げ、問題にされる危険性を報告している。この問題で共産党に批判される現実の危険性を池田会長は感じたはず。昭和49年は妙信講(現在の富士大石寺顕正会)との第二次抗争時で日蓮正宗ともかなりぎくしゃくしており、そのうえ共産党にこの問題をつかれると宗門とも余計こじれることが予想され、何が何でもそのような状況に陥ることは避けたいと考えても不思議ではない。むしろそのために協定を結んで、党はともかく、少なくとも学会と共産党とは休戦できればと思ったのだろうか。大石寺の土地取得手続きを共産党が取り上げて社会問題化するのを避けたいという狙いが共産党との接近の動機のすべてではないにしても、一つの要因としてあったのではないか。

追記2 共・創会談の3条件 
創価学会による言論出版妨害事件の頃の実現しなかった池田・宮本会談の試みの際に、仲介者(松本清張氏や五島昇氏)からか共産党からかは不明だがとして矢野氏が挙げた3条件①言論妨害を認め、謝罪する②政教分離or自民党寄りを改める③竹入委員長の更迭、につき山下氏は「とんでもないデマだ。」としており(共・創会談記 160頁)、山下氏の主張が事実であれば、仲介者も共産党もそのような条件を出していないこともあり得る。その場合は池田会長か池田会長の意向を忖度した側近が、池田会長との間に言論問題の処理を巡って確執の生じた竹入委員長の更迭をもくろみ、公明党サイドに相手からの条件と偽って竹入委員長の辞任を促そうとした可能性が考えられる。政教分離の建前から辞めさせたくても辞めろと直接言うわけにはいかなくなり、宮本委員長と対談して共産党からの批判を逃れたい、ついては会談実現のため、反共姿勢が強硬な竹入委員長は退いてほしいと言ったが対談自体が流れてこの試みはうまくいかなかったということか。昭和45年の言論出版妨害事件の発覚時、昭和47年の衆議院選挙の惨敗、昭和50年の創共協定の公表前後と数年にわたって竹入委員長の更迭論はくすぶり続けた。結局、竹入委員長を更迭する前に池田会長自身が昭和54年に創価学会会長を辞すことになる。

追記3 総務会代表者会議 
「学会の発表によると、十年協定は調印の前日、つまり七四年十二月二十七日に、北条浩理事長の主宰で四一名の総務会代表者会議がもたれ、その席上で調印を了承したことになっている。」(創価学会・立正佼成会84-85頁 共・創会談記)とある。しかし、この総務会代表者会議、実際に開かれたのか、開かれたとしても共産党との協定につき説明、調印を了承したものか疑問が残る。実際に開かれ、41人も出席者がいれば出席者の誰かから当日のうちに竹入・矢野氏の耳に入ったはずではないか。公明党の竹入、矢野氏は協定締結から3日後の昭和49年12月31日、竹入委員長は北条理事長が直接公明党本部に説明に赴いて北条理事長から協定締結の事実を知り、矢野氏は大阪に帰省中、党本部の竹入氏に年末の挨拶の電話をした際に竹入氏から協定締結につき知らされたとしており、その際、「あまりのことに受話器を取り落とすところだった。」と記している(矢野絢也「私が愛した池田大作」182頁)。年表で確認できる総務代表者会議の日付は12月26日(創価学会年表)。27日との記述は「創価学会・立正佼成会」と同書を引用した「共・創会談記」。1日違いとはいえ、気になる。松本清張氏も山下文男氏も協定締結直前のこの時期の出来事を詳細に記しているのに野崎氏から総務会で了承を得た旨の報告を受けたとの記述は両者ともない。学会の説明は虚偽か、総務会が形骸化し、出席者も内容がよくわからないような儀礼的にすぎないものであったか、41名もの出席者がいてたった数日でも公明党の議員、特に竹入、矢野氏には絶対に漏らすなとかん口令を敷けたものか。調印を了承と言っても、26日夜の話し合いでも協定の合意ができず、27日に双方持ち帰りトップの意向を聞き、28日に至ってもまだ「創価学会は公明党を支持する云々」との一文を入れる入れないで議論している。結局、捺印もその日に両者の法人印にしてはどうかとの松本氏の助言を受けて池田宮本対談が行われる翌29日に持ち越すなど、協定の成立自体が締結直前まで破談寸前で先が見通せない状態だったことも併せ考えると、総務会代表者会議が26日27日のいずれであったとしても、了承すべき協定がその時点では確定していないのだから、野崎氏は、北条理事長のみに話して法人印を拝借しただけで、総務会代表者会議を開いて協定を承認というのは事後、外部向けの建前だったのではないかと思えてならない。その後の野崎・志村両氏のはしごの外されようからしても。49年後の今となってはもはや知るすべはないのかもしれないけれども。



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