世界が存在することを確認するためにテロを起こす話・「パルチザン伝説」の感想の続き。
読んでいるあいだ、「何かに似ている」と思っていたけれど、読み終わった後で世界観が美里さんの作品に似ていると気付いた。(美里さんは、自分が好きなカクヨムの作家さんだ)
二作目の「兄貴の本命」について「主人公の夏来が唯一認識出来る『現実』(世界)が、自分を〇す兄なのでは(意訳)」という感想を読んで「なるほど」と思ったことがある。
「パルチザン伝説」も「兄貴の本命」と同じ造りだ。
主人公から兄への手紙という体裁を取っているが、この「兄」に実在する人物だという質感がない。
ブログ記事のほうでは、マトリョーシカ構造で語られる過去の話は「歴史上の太平洋戦争中の話」なのに、そういう実感がまったくなく、まるで蜃気楼の世界のようだと書いた。
「パルチザン伝説」の語り手は、主人公にせよ戦時中の父親の姿を語るSにせよ、「兄貴の本命」の主人公・夏来のように「現実をうまく把握できない人」なのではないか。
「パルチザン伝説」でも、主人公が兄に強〇されたような描写がある。
この描写について作品の巻末の解説では、「主人公の中で、兄が父の存在を越えたことを表しているのでは」と書かれていたけれど(母親とも関係を持っていたような描写があるので)、そうだったら主人公の語りの中で兄が最初から最後まで名前を持たない希薄な存在のままなのはおかしい。
物語上は、父親の(存在ではなく)「穂積一作」と「大井聖」という名前に強い意味が付与されている。「兄が父を超えた」なり「兄が父の代替になった」なら、この「父親の名前に付与された意味」は昇華されるはずだ。
「自分にとって父のみが認識できる存在であり、世界とつながる方法である」という点で主人公と兄は同等の存在だ。
主人公にとっても兄にとっても世界とつながる方法(世界があると実感する方法)は「父を殺すこと」しかない→しかし実際の父は生きているか死んでいるかわからない。それどころか、本当に存在していたのかすらわからない→だから存在するかどうかわからない父ではなく、「象徴の父」である天〇や社会制度に対してテロを起こす→「父を殺す」ことで世界とつながろうとする。
こういう構図ではないか。
「兄貴の本命」の夏来にとって、世界の存在を実感する方法が「兄に〇されるしかない」。それと同じで「パルチザン伝説」においては「父に対してテロを行うしかない」。
実際の事件を背景として用いているのも、「自分にとってインパクトがあった事件」を背景にしないと世界の強度が保てない、それくらい「世界が存在する」とする感覚が希薄なのかなと思った。
「その対象に対する思いがあるからテロを起こす」のではなく、「テロによって破壊することで、初めてその対象が存在することを実感できる」その可能性のみが世界を認識する方法である→だから逆にテロを起こせない(起こしても実感を得られなかったら世界が破綻するから)→ゆえに最終的には別の世界(ユタ)に行かざるえなくなった。
物語上テロは起こらない(起こせない)構図ではないか。(兄が赤軍派を思わせる組織に所属している設定なのに、有名な事件に関わらないで逮捕されて言葉を話さなくなったのはそのためでは)
自分の場合は、(物語上)前提として「テロを起こせる」ので、テロを起こすか起こさないかが課題になる。(だから「君が獣になる前に」を前のめり姿勢で読む)
「パルチザン伝説」のように「テロを起こすと世界が破綻する可能性があるから起こせない話」はいまいち理解しづらい。
わからないからこそそういう話を読むと、その違いでより「自分」がクリアになるところが面白く感じるのだろうと思った。
そういう話ってあるよね。