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「自分がオタクかどうかは他人との比較で決まる」という発想が、自分の中ではオタクではないのだが。

「オタク」は、自分にとって完全に人とコンセンサスがとれない言葉になっている。
 言葉というのは生き物で、その場にいる人の中で最も多くに機能しうる意味が意味として機能する。
 ソシュールが言う「ラングによってパロールは生成され、パロールによってラングが形成される」だ。(確か)
 ネットスラングを初めとする新しい言葉は特にそうだ。
「増田」も、はてなを知らない人からすれば「増田さん? 誰?」となるだろうし。

 自分の場合は、「アニメやゲームにほとんど興味がない人」には「アニメやゲームに興味がある人間」という意味で「オタク」と言うし、オタクという語にそれ以上の意味がある(何等かの概念を見出している)場では「オタクではない」と言っている。
 その場その場でコンセンサスが取れそうな意味を感じ取って使い分けている。
 それぐらい自分の中では定義がはっきりせず、流動性のある言葉だ。

 自分にとって「オタク」という語は、「社会性に無頓着に見える人に対して、社会が排斥するための言葉」から始まっている。
「大人になってもアニメを見たりゲームをする人間は、社会を顧みない子供」というスティグマに近かった。(ひどい話だな)

 他人から与えられる悪い意味から、自分から使ういい意味になったのは良かった。
 ただ「オタク」は「良くも悪くも他人(社会)からの評価を気にしない人」という意味が強かった(と思う)のに、今は増田友のように「他人に対して自分を誇示する語」として使う人が多くなった。(だから他人を「オタクじゃない」と規定したりする)

 増田についたブコメを読んでも、人によって意味がわかれている。
 定義が揺れている(一定の機能をしない)語で、人から自分を規定されて真に受けるなんて馬鹿馬鹿しいと思う。
 
自分がオタクかどうか他人(共同体内部?)に決めてもらう。
 という発想が、自分の中ではすでにオタクではない。
 
追記を読むと増田も「自分はオタクではなかった」と納得しているようなので、増田と増田友の間では「増田はオタクじゃない」で見解が一致したようで良かった。(のか?)

 自分の中で「オタク」は、「エルデンリング」の金仮面卿のような人だ。

「金仮面卿は、服を着る必要を感じない。そんなものが探求の助けになろうか」(金仮面のボロ布)

「着る必要は感じない」が一応、着てはいる。

「かつての弟子たちが施した最低限の装飾。彼らはもう、とうの昔に去ってしまった」(金の腕巻き/腰巻き)

 大丈夫、コリンがいる。(しかしコリンも……)

「それは、かつて彼に訪れた圧倒的閃きであり、探求の先にあるはずの輪の似姿であるという。もし君が、私と閃きを同じくするのならこれを被ってくれたまえ」(輝ける金仮面)

 いや、もう誰もいないのだが。誰に向かってしゃべっているんだ。
 しかし金仮面卿は、一人でも続けるのである。(楽しそう)

 オタクに限らずだが、自分が何者であるか(内面)を人に決めさせる、それに唯々諾々と従うという発想が自分には理解できない。
 他人にとやかく言われたら「そんなものが探求の助けになろうか」と返し、とうの昔に人に去られても圧倒的閃き(たぶん勘違い)を追い続ける。
 そうしたらそのうち、閃きを同じくする人(たぶん勘違い)が現れるんじゃないだろうか。

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