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「私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った」を題材に、文章の書き方について考えた。

 少し前に読んだこの話が面白かったので、「私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った」を題材に文章について考えてみた。この帯が巻かれている本多勝一の作文技術の本とは何も関係なく、自分が一人で勝手に考えたものだ。

 文章とは何か?
 情報を伝えたい相手に、正確に伝えるためのツールだ。
「何を伝えたいか?」で同じ情報内容でも、文章は変わる。


◆「何を伝えたいか」別に、文章のパターンを考えてみた。

①文章の内容のみを、多くの人に正確に伝えたい場合

「私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った」
 この文章の内容だけを、なるべく正確に多くの人に伝えたいと思ったら、自分だったらこうする。

①「中村が、鈴木が死んだ現場にいた」
 小林がそう証言したのかと私は思った。

 正確に情報を伝えたいと思う場合、伝えたい情報以外の枝葉は極限まで切り落とす。
 一文はなるべく短くして、主語と述語のみで完結させるのが理想である。

②文章の中の特定の情報を強調したい場合

 では読み手に伝えたい情報が「書かれている内容以外のものも含む場合」はどうするか?
 例えば、

②「中村が、鈴木が死んだ現場にいた」
 私は「小林がそう証言したのか」と思った。

こう変えると「小林がそう証言したことに、私が驚いている」ニュアンスが強くなる。「小林の証言に私が驚いていること」が文章で一番伝えたいことだという含意が読み手に伝わる。

 逆に①のように「内容だけを正確に伝えたい場合」は、語句の入れ替えや引用符や読点を入れることによって生じる含意も余計な情報になってしまう。
「誤解されるような含意はないか」のチェックも、①の目的を達成するためには重要になる。

 ②は、「嘘をつかずに、読み手の心の中にフックをかけたり視点を誘導したりするテクニック」としてミステリーやホラーなどで多用される。
 ミステリーの女王であるアガサ・クリスティーは、文章による視点の誘導が天才的に上手い。
 余計な含意は読み取らず、まずはそのまま読む。もし含意を読み取ってしまうなら、それが自分の中のバイアス(本当だと思いたいこと、勘違いしやすいこと)である。
ということを自分に(骨の髄まで)叩き込んだのは、間違いなくクリスティーである。

③登場人物の感情を体感させたい場合

「私」の感情を直接描写を使わずに、読み手に感じ取らせたい場合。

③「中村が、鈴木が死んだ現場にいた」
 小林がそう証言したのか。
 私はそう思った。

 これだと「私」が小林が証言したことに対して、何らかの感情を持っている雰囲気が出る。
「言葉をつまらせる」を文章で表現する。
 ハードボイルドのように、直接的に感情表現せず間接的に叙情したいときに使う手法だ。
 感情は人によって大きく違うから、言葉で規定するよりも読み手各々に想起させるほうが大きな効果が出る。
 言葉を感情で表現するよりもむしろ多くの人の体感にリーチしやすい。
 ただし上手く書ければ、である。
 それが出来れば苦労はない、というのは本当にそう思う(本当に…)
 影響を受けた小説三選に「ロング・グッドバイ」あげているだけあって、村上春樹はこういう描写が上手い。

④文章に含まれていないことを情報として伝えたい場合

 次に「私が衝撃を受けたこと」を情報に含めたい場合。

④「中村が、鈴木が死んだ現場にいた」と小林が証言したのか。
 私はそう思った。

 この後に「私は静かに目を閉じた」とか入ると、「お前が犯人かよ」と言いたくなるパターンになる。


◆考えること自体が凄く楽しい。

 自分は「文章の書き方」をきちんと勉強したことはない。
 強いて言うなら「こういう文章を読むと、こういう感覚が起こる」という自分の読書の体感を通して「読んで盗む形式」で学んだ。
 そのため、文章は自分の中にある「伝えたいもの」をいかに相手に伝えるかという目的が最も大事で、型はそのための手段に過ぎない、という考えが強い。

「型をきちんと学んだほうが、自分の理想の書き方に近づける」と考える人もいると思う(むしろこちらのほうが多数派ではないか。推測だけど)
 書くことが好きな人はみんな、多かれ少なかれ文章に対して自分なりの考えややり方がある。
 自分も自分なりの文章の理想形はあるが、それと同じくらいこうやって一人で試行錯誤するのが好きだ。

 自分が伝えたいこと(情報や感覚)をどういう風に書いたら読む人にわかってもらえるか。
「こうしたほうが読みやすいんじゃないか」
「こうしたらこの箇所に注目してもらえるんじゃないか」
「こうしたらこのキャラの言葉にできない感情を、言葉にならないまま感じてもらえるんじゃないか」
と、あれこれ考えて試してみること自体が楽しくて凄く好きなのだ。
 時間をかけて考えたあげく、後から読むと自分自身でさえ読みにくく(あるある)結局一番最初に書いた表現のほうが良かった。
 そう思うことも多々ある(あるあるある)

 AIが日常的に活用されるようになってこれからどうなるか、という時代だけれど、自分個人としてはそのことは余り気にせず、趣味のひとつとしてこれからも楽しく試行錯誤したい。

◆余談

「流行りものを大量に書くことで、小説の書き方を身につけた」というレイモンド・チャンドラーのエピソードが凄く好きである。実戦を生き残ることで戦場の掟を学んだ熟練の兵士みたいだ。
 例えテンプレを使い回しているだけだとしても「大量に書ける(書き続けられる)」というのはそれ自体がひとつの才能だと思う。
というより、テンプレを使いこなせるだけで十分凄いと思うけどな。

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