それでも、細田守のように「自分のための物語を語る人」に創作を作り続けて欲しい。

ブログに書いた「竜とそばかすの姫」の感想の続き。(ネタバレあります。)



上記の記事と「未来のミライ」の感想記事で書いた、自分が細田守作品を面白く感じない理由を箇条書きすると、

・ストーリーの基盤になる設定が作りこまれていない。
・ストーリーがあるようでない上に、展開にも驚きがない。
・作り手が興味がない事象は、ストーリーで見せるのではなく言葉で説明してしまう。(例:「竜とそばかすの姫」で言えば、鈴に対する他の女子からの妬みなど)
・作り手が興味がない登場人物は、主要場人物でさえほぼ個性が無くテンプレ的な存在である。
・悪意に興味がないのに中途半端に出すから、「悪意」がとるに足らないものに見える。

要は「作り手が気合を入れて描いているキャラと映像以外全部」なので、萌えが重なるかが「面白く感じるかどうか」の分水嶺になる。

「竜とそばかすの姫」は、「罪悪感と無力感に苦しむ醜い獣の本性を持つ暗めの少年」「ちょっと自信はないが優しい気性のそばかすっ娘」という組み合わせによるおねショタが、奇跡的に自分の萌えにドストライクだったのでそこは面白かった。
しかし萌えがぴったり一致してさえ↑のような不満があり、「面白くないわけではない」という微妙な感想になってしまう。

ただ面白い面白くないという話とは別に、自分の好きなもの以外はとことん興味を示さない姿勢、そしてそれと裏返しの自分の好きなものは例えそれがどれほどニッチでも追求する姿勢は好きだ。

同じモチーフを手を変え品を変え描き続けるのは、新海誠も同じだ。だが、新海誠がこだわっているモチーフは、「少女(女性)への憧憬と恋」なので、まだしも多くの人に訴求しやすい。
細田守がこだわる「ケモノに変身する男の子」というモチーフは、ニッチさが桁違いだ。

「竜とそばかすの姫」では、「竜」の正体である恵の登場シーンはラスト以外ほとんどない。
にも関わらず、出てきた瞬間に「主役の片割れだ」とすぐに分かる。作者の底知れぬ思い入れがにじみ出ていて、強い吸引力になっている。こういうところはほんと凄い。

細田守の作品がこれほど自分にとって面白くない要素ばかりで出来上がりながらもつい見てしまうのは、こだわっているただ一点に集中している強烈な思い入れとそこから発生する引力のせいだと思う。
興味がわかないし、理解は出来なくとも、強いこだわりが何作も何作も連なるその様子自体に何だか感動してしまう。

それを見ていると、創作は本来はこういうものかもなと思うのだ。
自分が考えた物語をわかってくれる人がいたら嬉しい。
面白いと言ってくれる人がいたら飛び上がるほど感動する。
商業でやっていれば、収入を考えなければいけない。だから、なるべく多くの人に受け入れてもらえるように考えなければいけない。

でもそもそもは、自分の中の「こんな話が面白い」「こんなキャラが好き」「こんな世界があったらいいな」という想像から始まっているのだ。その時は、ただただ自分の好きなことや興味のあることだけを考えている。
細かいことは後回しで、自分の中のイメージをただ自由に膨らませて自分のためだけに世界を作っている。

他人にとって用がない。そんなのは当たり前だ。
だってそれは、自分のためだけの物語なのだから。

「竜とそばかすの姫」を観ると、何とか大勢の人にリーチしようと外形を整えているように見える。
無理にそんなことをせずに、「竜になる少年をそばかすの歌姫と一緒に愛でる物語」にすれば良かったのに。
「未来のミライ」の前半がくんちゃんのプロモと化していたように、竜と天使がじゃれたり生活する様をひたすら見せたり、ベルがたまにやってきて竜がツンツンしている様を見せるだけでも良かったのではないか。
少なくとも、自分はそっちのほうが面白いと思った可能性が高い。

例え周りから何を言われようと、観てくれる人がいなくなろうと、それでも自分のために自分の好きなものを作り続ける人、語り続ける人、自分はそういう人にずっと創作を作って欲しい。

それは他人から見て面白いか面白くないか以前に、ただただいいな、美しいなと思うんだよね。
最後はその引力に負けて、「もしかして、これ、面白いのかも」と思ってしまいそうな気がする。(既に思っているような気もする)

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