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「デュエル・マスターズ」の(いきなりつよいデッキを遊んでみての)感想

 以下の文章は全て個人的な見解です。権利者の方々による指摘や、個人的な気付きによって、予告なく変更・削除する可能性があります。
 また、視界が狭い人間なので、色々とご指摘いただければ幸いです。



前提

  • 発売当時に第一弾を遊んでいたプレイヤーが、いきなり強いデッキをプレイした感想となる。

  • 最新のプレイ・競技環境の感想というより、基本的なメカニクスに対する感想が中心である。

  • カードゲームのスターター的なデッキを遊んでみての感想をまとめるシリーズ記事の1つである。

  • 筆者が慣れ親しんでいることもあり、特に「マジック:ザ・ギャザリング」との比較が多い。
    (念のため記載しておくが、当然のように、どちらのゲームが優れているとか、そういうことはない。単純にメカニクスを比較しているだけだ)



感想

「マジック:ザ・ギャザリング」の系譜

 今更言うまでもなく、漫画である「デュエル・マスターズ」に登場したカードゲームであり、この漫画は元々「マジック:ザ・ギャザリング」の漫画であった。

 本漫画は、編集部などの予想に反して人気の出たらしいのだが、しかしながら、小学生がメインの読者であるコロコロコミックの連載作品に登場するカードゲームとして、「マジック:ザ・ギャザリング」は複雑過ぎた。

 様々な事情はあったようだが、結果として「デュエル・マスターズ」というカードゲームがデザインされた、ということらしい。

 実際、当時筆者は小学生で、この漫画の「デュエル・マスターズ」によって「マジック:ザ・ギャザリング」を始めたプレイヤーの一人だったのだが確かに、当時の自分には難しかった記憶がある。

 筆者は昔からゲームが好きで、チュートリアルとかゲーム用語とかもしっかりと調べる方、かつルールを読むのが苦ではなかったタイプなので、自らルールを読み、それを周囲のプレイヤーに教えるような立場ではあったのだが、それでも、当時の自分には裁定が難しいことが多かった。

 さらに、その後で、転校を経験し、転校先でも「マジック:ザ・ギャザリング」が遊ばれていたので、そこで遊んでみたのだが、そのルールがかなり酷かったのを今でも覚えている。

 マナ・バーンは存在せず、マナは好きなだけ溜められていたし、しかも、そのマナの数すらまともにカウントされていなかった。スタックのルールもなかったし、ブロックはあったが、複数体によるブロックはなく、クリーチャーを直接攻撃することもできた。ダメージは蓄積されていて、しかも、それはカウンターなどを用いて厳密には管理されていなかった。さながら、カードゲームごっこ、というような様相を呈していたのだ……

 というような感じで、さながら「大富豪」のようにローカルルール(ルールと呼べるかすら定かではないが……)が跋扈しているような環境だった。まあ、少なくとも、筆者が小学生の頃は。


 そんな中、「デュエル・マスターズ」のルールは革新的であった。

 難しいルールであるスタック(インスタント・タイミング)や、ブロック、スタミナ、土地などが存在せず、しかし、簡素になってはいても、複雑さは十分に維持されていた。

 特に、当時感心したのは、2つの変更であった。


 1つは、シールドの概念だ。

 小学生ながらに、「マジック:ザ・ギャザリング」は20のライフをカウントしなければならない、というのが大変である、と感じていた。特に今のようにスマートフォンや携帯電話のようなデバイスがあるわけでもない当時にそういったカウンターを常備しなくてはならないのは、小学生にとって大きい負担になっていたのを覚えている。(まあ、結局、デッキケースにまとめて入れるだけ、と言えばそうなのだけれど)

 それをカードでカウントできる、というのは革新的だった。

 今にして思えば、「ポケモンカードゲーム」も近い形で実装されているが、こちらはダメージカウンターというものが存在する。

 それらを廃して、本当にカードだけで遊べる、というのは当時の自分には画期的に思えたし、未だに小学生たちにも人気がある(余談だが、いきなりつよいデッキを買った店舗のプレイテーブルでは、半数以上の卓で「デュエル・マスターズ」が遊ばれており、今の子供たちにも人気がある、ということを再確認させられた)のも肯ける。


 もう1つは、マナチャージの概念だ。

 今となっては、筆者は土地信者過激派(以下記事参照)であり、それが土地事故が一概に悪いことだとは思っていない。

 しかしながら、当時の自分としては、やはり、土地で敗北してしまうのはつまらない経験だった(これはマナカーブや適切な土地の枚数、色シンボルといったような理論がわからなかったせいもあるとは思うが)。

 これが発生しなくなり、なおかつ、マナコストの面白さは維持できるという、『なんでも土地カードとして出せる』というルールは、当時の自分にとっては完全上位互換と言えるようなルールであり、大層感動したのを覚えている。今すぐに「マジック:ザ・ギャザリング」にそれを導入して欲しい、と思ったぐらいだ。(なんという浅慮なのだ、と今では思うけれど)


 これら2つの実装は、未だに「デュエル・マスターズ」の系譜のカードゲームでよく採用されている仕様であり、多くの利点がある。

 ただ、当時の自分からしても、一部の変更には不満があり、結局、それらが理由で、第一弾の時に触っただけで、「マジック:ザ・ギャザリング」に戻ってしまった。その後、様々なカードゲームのスターターデッキで遊ぶ、ということを現在しており、いきなりつよいデッキで遊んだことをきっかけに記載したのが、本記事である。

 長くなってしまったが、基本的には「マジック:ザ・ギャザリング」のルールをスマートに改変しており、当時の小学生でも難なく遊べるようなルールになった。これらの変更は、「マジック:ザ・ギャザリング」の奥深さを部分的に維持したまま、簡素にまとめられており、後世のカードゲームでもよく採用されているメカニクスが多数存在する。



シールド制のメリット・デメリット

 シールドというのは、『カード自体をライフのカウンターとして用い、クリーチャー(に該当するタイプ)の攻撃を受けた際に、そのカードを手札に加える』というルールで、本作はそのようになっている。

 これには、色々な利点や欠点が存在すると考えられる。


 まず、前述したような表現方法としての簡便さだ。

 追加のライフカウンターなどが必要なく、単純にカードを並べればよいと言うのは単純であり、便利である。

 一方で、20枚のカードを並べてライフとする、というのは現実的ではなく、少ない自然数であることが求められるのが自然だろう。それに伴って、シールドを破壊する条件も、それに見合ったものにする必要がある。


 次に、逆転可能性がある、ということだ。

 そもそも、シールドとして置いてあったカードが手札に加わるというルールである以上、ハンドアドバンテージとしては有利になる。つまり、シールドブレイクというのは、ある意味で損失と言うより、相手のリソースの変換であって、それ自体が単純に不利、ということになりにくい。結果として、試合に勝てることもある。

 加えて、シールドトリガーというルールが採用されている。これは、シールドブレイクの際、シールドトリガーを持っていれば、それを唱えられるというもので、一発逆転の望みをかけることができる。

 欠点は、その裏返しであり、相手を攻撃することが単純なメリットにならないので、攻撃をしない方が有利なことがある。ちまちまと殴っていれば、その分だけ手札は充実するのだから、逆転される可能性も高い。止めをさせばその手札は意味がなくなるので、そうなるまで攻撃を渋る。結果としてゲームの展開が遅くなる、ということを導く可能性がある。

 また、ランダム性が高い、と感じられることもあるだろう。


 あるいは、パワーとは別の指標をクリーチャーに持たせることができる、という風に考えることができる。プレイヤーに攻撃を与える際に使用する数字は、あくまで無能力であるか、Wブレイカーであるか、Tブレイカーであるか、ということだ。パワーはクリーチャーのバトルでしか参照されない指標なので、それが与える影響が抑えられている。たとえば、パワーが100万というようなクリーチャーが存在しても、ゲームが壊れることはない。ここが分離されていない「マジック:ザ・ギャザリング」では、そうはいかないのだ。


 総じて、(あらゆる実装に共通することではあるが)利点と欠点が存在し、それらは裏表であることも多い。後世のカードゲームでは、ルールの一部を変更し、悪い影響を抑えようとする試みもある。



マナチャージと土地システムの比較

 小学生の筆者には上位互換である、と感じられたマナチャージのシステムと土地のシステムの差を考えてみたい。

 すべてのカードがマナチャージに使用できるということは、ある意味では各カードに基本土地(あるいはタップイン多色土地)のモードが付いているようなもの(後に「マジック:ザ・ギャザリング」で片面が土地の両面カードが生まれており、これはまさに「デュエル・マスターズ」のような仕様であると言える)だと考えられる。この影響はどうなるのか。


 まず、マナスクリューもマナフラッドも存在しなくなる。

 色事故は存在するから、色におけるデッキ制限は存在するが、マナの事故は発生しなくなる。やはり、土地がまったくでないのも、土地ばかり引くのもゲームにはなりにくいわけで、そういうしょうもないゲームは各段に少なくなっていると言える。

 一方で、(全体のデッキ枚数が少なかったり、各カードの効果も影響しているが)良くも悪くも(「マジック:ザ・ギャザリング」に比べ)比較的安定感があり、同じような展開が起こりやすくなる。つまり、同じようなゲームプレイが繰り返されることが多くなるので、それを良いとみるか悪いとみるかはプレイヤーによるだろう。


 また、土地という別のカードではなく、一般的なカードのモード違いであるので、それを利用しやすい。

 呪文として唱えたカードをマナゾーンに置く、マナゾーンのカードを踏み倒して戦場に出す、《流刑への道》のようにクリーチャーをマナゾーンに置く、というような位置の操作だけで、色々な表現が可能になる。

 逆に言えば、各カードは均一化されてしまう。「マジック:ザ・ギャザリング」において、土地カードは様々な場面で例外的に働き、それが面白い作用を生むこともある。土地カードだけで構成されている『土地単』のようなデッキや、逆に(普通の)土地カードを入れることがない『スパイ』のようなデッキが成立し、ゲームのデザイン領域を広くしている。


 加えて、本ゲームでは、基本的に各ターンに1枚しかドローできない、という所も効いてくる。「マジック:ザ・ギャザリング」でも同じではあるのだが、マナチャージを行っている以上、その後でカードを出したら、その分だけ手札が減るわけであって、ハンドアドバンテージは減っていく。

 ここの利点を生かしたい、と考えているのであれば、なんらかの形でドローをしなければならない、という風になるだろう。

 「デュエル・マスターズ」後のカードゲーム、特に近年のカードゲームではこの部分が緩和されていることが多く、2ドローが基本であったり、他の手段でカードが引きやすくなっていたり、マナチャージには専用のカードを使うことで手札が減らなくなったり、というものも多い。

 それは手札という選択肢の幅を減らさないための手段ではあるとは思うが、本作のような手札のシビアさ(現在の競技環境ではどのようになっているかはわからないが、原則的には、という意味である)は、それ特有の面白さを感じさせるものではある。



踏み倒しとマナコスト

 いきなりつよいデッキをプレイしてみた感想なのだが、踏み倒しが多いと感じられた。特に、『守り』のデッキはそれがテーマになっているのでしょうがないとは言え、『攻め』の方も様々なコスト軽減・踏み倒しが存在していた。軽く調べた限りだが、本作品ではよく行われるようだ。

 「マジック:ザ・ギャザリング」でも、ローテーションが起こらず、カードプールが広いフォーマット(レガシーなど)では、強力なクリーチャーは一般的に踏み倒されることになる。これに近いものを感じた。

 コストの踏み倒し(正規のコストを支払ずにプレイする)というのは、多くのカードゲームで人気のあるテーマだ。このように多用されているのは一定の納得度がある。

 ただ、極端に大きなマナコストは、事実的には踏み倒しが前提にあるという指標にしかならなくなってしまう、という風に考えられるだろう。

 『守り』のデッキには、11マナぐらいのクリーチャーが入っていたが、これを(少なくとも『攻め』のデッキと戦っている際に)通常のマナコストで召喚することはないだろう。「マジック:ザ・ギャザリング」の《引き裂かれし永劫、エムラクール》を15マナ支払って出すことも基本的にはない。

 これらはある意味で、単なるタグに近いものであって、たとえば、『10マナ以上のクリーチャーを対象とし、~』という効果に当たるか当たらないか、というようなものでしかなくなってしまう。

 ただし、統率者フォーマットにおけるエルドラージ・タイタンなど、各カードで工夫して多くのマナを出し、通常プレイするようなことはあり、その場合は、一種の目標というか、そういう指標として機能するだろう。

 結局はバランスであり、基本的には工夫することで手が届くが、踏み倒しの対象としても使える、という所を目指すのが一般的なのだろう。ただ、単に踏み倒しの対象というだけならば、すべてのカードで最も能力が強いカードを使えばよいだけで、カードの多様性が無視されることになる。踏み倒しの対象を制限したり、シナジーやメタを回すことによって、バリエーションを演出するような形になっていると思われる。



兄弟のカードゲームがあること

 前述した「マジック:ザ・ギャザリング」の《引き裂かれし永劫、エムラクール》だが、なんと、「デュエル・マスターズ」にも同じカードが存在している。同じ会社が開発に携わっており、「マジック:ザ・ギャザリング」のカードが一定数、「デュエル・マスターズ」にも登場しているのだ。

 「デュエル・マスターズ」で採用された新メカニクスが「マジック:ザ・ギャザリング」で登場したり、「マジック:ザ・ギャザリング」のメカニクスが改善されて「デュエル・マスターズ」に採用されたり、というように、両者の関係は未だに続いている。

 よく挙げられる面白い話として、「デュエル・マスターズ」では、3色の色の組み合わせを一定の用語で呼ぶ(たとえば、白青黒ならば『ドロマー』)らしいのだが、これは「マジック:ザ・ギャザリング」のカードに由来している。その色で、そのような名前のカードが存在していたことから、「マジック:ザ・ギャザリング」でも昔はそう呼ばれていたのだ。

 しかし、「マジック:ザ・ギャザリング」では、後々、その色の組み合わせをテーマにした拡張がデザインされており、その際の名称(上述の組み合わせならば『エスパー』)で呼ばれることがほとんどとなり、元々の名称は今では使われていない。

 つまり、「マジック:ザ・ギャザリング」に由来する用語なのに、「デュエル・マスターズ」でしか、今は使用されていないのだ。このちょっとしたねじれは、生物の枝分かれの歴史を垣間見るような面白さがある。

 このように、(日本で)トップ10位に入るような人気のカードゲームでありながら、デザインが似通っていて両者の関係性が続いており、プレイヤー層としても住み分けが出来ている(もちろん、両者をプレイしているプレイヤーも多い)、というのは、良い関係性であると考えている。

 これからも、互いが良い影響を受け、より面白い環境、より面白いカードが生まれていくことを願っている。


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