しょうもな思春期

 昔から流行を追うことが苦手だ。

 「昔」と書いたが、高校生くらいまでは流行を追う生き方をしていた。同級生の会話についていくためである。
 それが、大学に入り、メインストリームとは離れたところに生きている人が多い小劇場界に身を置き、「人と違う人ってかっこいい」という、多くの若者が通るであろうサブカルチャーという名のメインカルチャーに乗り、そういう逆張り精神のまま40歳手前まで来てしまった。
 ここが癌で、それはつまり、表現者たりえるには独自の価値観を持ち合わせていなければならない、という強迫観念に左右されていただけなのだ。
 しかしそんなものは結局、高校時代までやっていたことと何ら分からず、「自分が面白いと思っている人が面白がっているものを、面白いと思いたい」という、右ならえの考え方に基づいていたに過ぎない。

 本当にしょうもない。
 そんな生き方では、自分が心の底から面白いと思えるものを見つけられない。
 大衆がダサいとか、変でいることがかっこいいとか、そんなことではアイデンティティなんて確立し得ない。
 これは最近になって痛感することで、言うまでもないことなのだが、流行りのドラマや流行りのアイドルには、実は流行りの理由がちゃんとあって、ただ単に「俺は時流とは違うことをしていくんだ」の頑固一徹では、見落としてしまうトロの部分も数多くあったように思う。
 流行っているものに触れる。そこからしか「ああ自分には合わないな」「え、めっちゃ面白いじゃん」には分岐しないのだ。触れない、は、つまりは何もしないのと同義だ。要はサボりだ。

 俺はもっと流行に触れようと思う。面白いと思ってのめり込むにしろ、つまらないと切り捨てるにしろ、すでに判断基準は持っているのだから、素直にそこに従えばいい。触れなければ判断は下せない。自信を持って、己の心に従いたい。

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