器ばなれ

 6年前に出演した舞台のDVDを観た。そこには、当然ながら今よりも若い自分がいた。加えて当時の稽古や本番でのことは断片的にしか覚えておらず、しかしそのおかげで、とても新鮮な気持ちで鑑賞できた。
 不思議なもので、自分の役についてもほぼ他人事として認識できた。確かにその時はその役の台詞を覚え、プロフィールを補完し、衣装を着、共演者とネタ合わせなんぞをして日替わりネタに勤しんでいたはずなのだが、新しいことで脳内が塗り替えられた今、まったくの別人がそこにいる感覚になった。

 そう、「別人」がいた。
 「役」ではなく、「別人」である。「そういう人間」がそこにいたのだ。
 見た目はまぎれもなく当時の僕なのだが、記憶がほぼなくなくった状態で観ると、本当に別人が生きているように見えた。あくまで自分は身体を貸していたに過ぎなかったんだ…という、確かな感覚があった。
 ここ1,2年ぐらいの話になると、記憶も新しいし愛着もあるため、役と自分がまだ離れきっていない気がする。台詞の一部を諳んじることもできる。でも6年も経てば、子が親ばなれをするように、役が器としての身体から巣立ってゆくのかもしれない。「役の器ばなれ」とでも言おうか。

 ヒトの細胞は6,7年で全て入れ替わるという話を聞いたことがある。それはつまり、はっきりと別人になるということだ。
 確かにそれぐらいの時間があればいろんなことがある。コロナ禍はこの間にあったわけだし、個人的なことで言えば、僕は既婚から独身になった。演劇というものに対する考え方も徐々に変化し、結果、あの頃と今を比べるとだいぶ違う。つまり別人だ。
 もちろん「器ばなれ」の条件は時間経過だけではないかもしれない。でもそうやって、自分の身体からは遠くに行った彼らのことを思うと、僕はなんだか嬉しくなる。この世になかったものがそこに確かに具現化していたわけだから。いや、描かれていないだけで、この世のどこかで暮らし続けていると錯覚することもできる。

 彼らよ、幸せであれ。これからもそういう人々の器でありたい。

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