13/08/2020:『Lonestar』

現代 1

彼女の12畳ワンルームのアパートには最低限のものしか置いていなくて、ちゃんとご飯を食べられているのかが心配になるほどだった。玄関を入ると、左手に簡単なキッチンと小ぶりな冷蔵庫。中にはビールと牛乳と梅干ししか入っていない。生活スペースには壁一面の本棚の下に、フローリングに直接置かれた座椅子と丸いテーブル。布団は押し入れから毎回出しているらしい。

そして、異彩を放っているのが、反対側の壁際におかれた設計士が使うような傾斜のついた机だった。両手を広げたくらいの大きさの木枠に白いボードが埋められている。

「ライトがつくの。すごいでしょ。」

と、言って彼女は脇のスイッチを入れた。ぶーん、と電源の入る音がして、ボードが淡く光った。

「ここにかざすと、下の紙が透けて、作業しやすいのよ。」

そして彼女は本棚からかなりの大判クリアファイルを一冊抜き出して、そこから一枚の紙をボードに置いた。とても古い地図だった。

「500年前の地図。」

一応ラテンアルファベットで場所や道が記されているが、所々わからない文字があったり、あるいは線自体が消えていたりする。

「で、これを重ねると、」

彼女は薄い紙をその地図の上においた。下地となった地図の線がライトに照らされて浮かび上がると同時に、薄紙に書かれた文字や線が重なる。

古い地図と現代の地図を合わせると、二重の地理情報が浮かび上がり、時を超えた立体的な景色が浮かびがった。彼女は、古い記憶と新しい記憶をつなぎ合わせていた。

「これが私の仕事なの。」

と、彼女は少し笑った。

                 ・・・

昔 1

「雨が酷いな。」

屋根を打ちつける雨音。出来たばかりの石畳に跳ねる水しぶき。雷が遠くで木々をなぎ倒すように轟いて、太鼓を撥で叩いたような振動が伝わる。

ロウソクの火が弱々しく揺れる机の上で、もう一度ペン先にインクをつけた。

「5年前に比べたら、これはすごい進歩だ。ここまでもう街ができている。」

壁に貼った地図たちを見上げる。いくつかのピースに分けられた新時代の土地が、順を追ってどんどんその洋紙の上に広がる。

大学食堂で張り紙を見かけた。

<作図者急募:新大陸にて。新政府軍の補償および帰国後の身分補償あり。>

出港は1ヶ月後だった。教授に相談しに行くと、

「実は私も行きたいところだったんだがね。船旅はもうこたえられん。書物や作業器具の運搬は研究費から出そう。王国の発展に寄与する研究になるぞ。」

と、言って、細かな事務手続きは全て処理してくれた。

出航の日、港に集まった親戚家族みんなが僕を抱きしめ、

「一家の誇りよ」

と、耳元で囁いた。母は少し悲しそうだったけど、それも引っくるめて激励として受け止めることにした。

タラップを渡って船から振り返る。家族が大きく手を振ってくれていた。

僕は港を隅々まで見渡す。

見送りに来て欲しい人の姿は、どこを探しても見当たらなかった。

                 ・・・

現代 1

彼女が地図を書いている間、ご飯を作った。

キッチンには最低限を洗練させた程度の調理道具とシンプルを切り詰めたくらいの調味料しか置いてなくて、僕は「さて、どうしようか」と最初から最後までぶつぶつと呟き続けた。

幸い、鍋とフライパンはあったし、途中のスーパーで塩とオリーブオイルはあると彼女が教えてくれたので、簡単にペペロンチーノを作ることができた。

濃いめに塩を効かせてパスタを茹でる。ニンニクと赤唐辛子を冷めたフライパンにオリーブオイルとともに入れて、少しずつ熱を通す。軽く泡立って来たら、塩もみしておいたゴーヤを炒め始める。そうこうしていると、パスタが茹で上がるので、その前にフライパンへオイルサーディンを加えて、形が崩れないように火を通す。煮汁を切らずに、そのままパスタをトングで移して1分半も和えれば完成だ。

「わお、素晴らしいわね。」

と、彼女は言ってくれた。

「日記を読んでいたの。街の図書館にあったんだけどね。今の私たちより少し若いくらいの青年が、船に乗って新大陸を目指す。意気揚々と乗り込んだはいいけど、嵐に見舞われたり、凪のせいで何日も動かない船で太陽に焼かれたり。やっとの事で到着した大陸では、まだ歴史は始まったばかり。先住民と手を取り合いーと書いていたけど、きっとそれはウソねー、港を出発点に森を切り開き、道路を整備して家を立てる。どんどん街が作られていく。」

「彼は大工さんの日記?」

と、聞いた。

「いいえ、測量士よ。街の地図を作る人。」

僕は黒い髪を伸ばした少し繊細そうな青年を想像した。特殊な器具を使うのだろうか。昼間は汗を流しながら土地を歩いて、夜が来たら机に向かって線を引く。ロウソクの明かりが外からオレンジ色に漏れ出ていて、彼の勤勉さを語ってくれている。

「そうして思ったの。私は道標を残す人になりたいってね。メタファーとしての印ではなく、物理的に何かを残したいって。」

高校を出た後、彼女は海を渡った。8年間かけて古い大学で文献学の博士論文を書き上げると日本へ戻り、博物館の地図修復士として仕事を始めた。

「貴重な資料を持ち出したりしても大丈夫なの?」

と、聞いた。

「ここにあるのは私が留学してた時に勝手に集めていたものだから、国のものではないの。がらくた市なんかで少しずつ集めたものよ。」

鍛錬も兼ねて、できるだけ地図と向き合うようにしているらしい。真面目な性格が伺える。

「というか、これしかすることがないの、私。台所見てもわかるでしょ。」

確かに、と思うだけで、言わないでおいた。

「それでね、どうしてもわからないことがあるのよ。」

と、言って僕を作業台まで連れていくと、ライトをつけて、ここ、と指差した。

日に焼けた洋紙に描かれた古い街の地図だった。海に沿って大通りらしきものがあり、そこから内陸へ向かっていくつも道が伸びている。それぞれに名前がついていて、昔の偉い政治家や軍人の名前、あるいは宗教関連の語彙が目立つ。

彼女が差した道は、海岸通りから伸びる道を3ブロックほど進んだところ。全ての道が碁盤の目に交わり突き抜けている中、そこだけがドン突きになっていて、歪さが目を引いた。

「Juan-Elizabeth通りって名前なんだけど。」

「これの何がわからないの?」

「うん。JuanもElizabethもそれぞれ男性女性のファーストネームでしょ。名前ー苗字の組み合わせじゃない。つまり、この行き止まりの道にだけ、2人分の人間の名前が付けられている。」

「それがどうしたんだい。」

「どうしてかしら。他の道についた名前は、きっと偉人を称えたりや宗教的な思が込められているものなんだろうけど、これだけが、その、違うような。とても個人的な感情が込められているような気がして。」

JuanとElizabeth。2人にまつわるエピソードがこの行き止まりにこっそりと隠れているのだろうか。こうして彼女に見つけられるまで、誰の目にも映る場所で、でも誰かにしか注目されないような形で。

「誰がつけたんだろう。2人を知っている人なのかな。それとも、JuanかElizabeth、どっちかだったりしてね。」

僕は何の気なしに言ってみた。

「そうね。しかも、もしかしたら私が昔読んだ日記、Juanさんが書いたものだったりして。」

「うん。あってもいいかも、それくらいのこと。」

2人の名前が地図の上で重なる。同じようにして僕らは手を繋いだ。

                 ・・・

昔 2

ロウソクが短くなる頃になっても、雨は降り続いていた。窓を少し開けてみると、音量が倍になって部屋に響く。通りのドン突きにあたるここまで風が吹いているということは、きっと大通りの方はもっと強いはずだ。

「この調子じゃ山の方はひどいな。あしたの測量は中止かしら。」

仕事が進まないことへの焦燥感と、休息への期待感が胸に込み上げる。

国に何度か手紙を書いた。大学にはこちらで書き溜めた地図や測量データを送っていたので、それと引き換えに新しい研究書や論文が送られてきた。教授は来年退官するらしい。最後の手紙には後任への推薦書が同封されていた。

家族からは近況報告が主だ。姪やら甥やらが増えたり、あるいは遠縁の叔父がなくなったり、よくある家族の典型的な時の流れが書かれていた。

でも、彼女からの手紙は届くことはなかった。5年間、一度も。港にも姿を表さなかった彼女は、きっともう僕の人生に再び登場することはないのだろう。5年間想い続けた、というわけではないが、ただ明確な終わりを迎えることなく過ぎ去ったこの5年間は僕の心を虚無と悲しみで包み込んだ。

「彼女はもう消えてしまったんだ。」

ただ、事実として。形のない、でも揺るぎない事実として受け止めるには、心だけでは到底支えきれない。

「心に残す代わりに、ここに残そうか。」

ペン先をインクに浸して、洋紙を手で押さえた。

僕が1人で受け止めきれなかった悲しみを、きっと誰かがすくい取ってくれるはずだ。そして、そのまま記憶が残ったとしたら、いつか2人は結ばれるんじゃないか。それくらいのこと、あったっていい。

そんな期待を込めて、名前を書く。

港町の小さな路地の行き止まり。

2人の名前は少しずつ洋紙に滲んでいって、ロウソクの火に揺らめいた。

でも僕は火を吹き消して、暗闇の中で地図を見つめると、指で少しなぞった。

雨音だけが、僕を包んでいた。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

Norah Jonesで『Lonestar』。


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