07/10/2020:『Erti nakhvit』

羊の群れを引き連れた老人が廃線になった線路脇に座っていた。自分の家からプラスチックの椅子を持って来たのだろうか、信号機脇に置いて腰掛けると、あとは羊たちに好きなように草を食べさせている。

砂利道を踏む音に羊たちが気付くと、それにつられるようにして老人も僕の方を振り向いた。

広大な空と高く深い山の緑が津波のように向こうに見える。金色の野草たちはその縁の方までずっと広がっていた。

「この先は何もないぞ。座っていきなさい。少し話し相手になっておくれ。」

と、老人は言った。いちじくみたいなベレー帽に鼠色のセーターを着ていた。履き古されたブーツが信頼感を僕に抱かせる。

「ありがとうございます。」

と、僕は言って、そのまま線路にしゃがみ込んだ。老人を少し見下ろす形になった。そして、こうして目線を変えると草原には枯れ草だけではなく、所々に紫やオレンジの花も咲いていることに気が付いた。それはとても綺麗だった。

「お茶を飲むかい。家で淹れてきたんだ。」

小型のバスーカくらいある水筒から熱々のお茶を注いでくれた。

「あ、じゃ、僕はクッキーを、どうぞ。列車に乗る前に買ってきたんです。」

と、言って差し出した。

降りたのはずっと前の駅で、とうの昔にここにはもうその列車が乗り入れることはなくなっていた。今はこうして線路だけがずっと向こうまで続いている。

「売店の婆さんは元気だったかい?あれは中等学校の時の同級生なんじゃ。」

と、老人は懐かしそうに言った。確かに、あのおばあさんも何処と無く彼と似た雰囲気を持っていた。

「ハキハキと喋る、快活そうなお方でした。ただ、この先に行くと言った時は、あなたと同じように「この先は何もないよ」とはおっしゃっていましたけど。」

「ははは、そうだろう。あれでもかなりおとなしくなったんだよ。」

そう言うと、クッキーを頬張り、お茶を一口飲んだ。

羊たちは時折メェメェと鳴き、そしてブルブルと首を回すと鈴の音が聞こえたりした。気持ちのいい風が今来た線路を伝って届いて、そしてもう列車が来ない奥の方へと向かって消えていった。

「羊たちだってこの先に何もないことを知っているくらいさ。」

と、老人は言った。蓄えた髭にクッキーのかすがついていた。

「そうでしたか。ちょっとこの辺の地図がなかったので、どうにもこうにもならなくて。ただ、景色がいいとは聞いていたので、行けるところまでは行こうと思っていました。ですが、おっしゃるように、ここが一応最終地点なんですね。」

変な気持ちだ。草原はずっと続いているのにもう先がない。

線路だって続いているのに。

「この先にも線路が続いていると言うことは、昔はあったんじゃないですが、村なり町なり?」

と、聞いてみた。

すると、

「もちろんあったさ、もちろん。」

と、言ったっきり、老人は静かにお茶を飲んでいた。

線路を支える板はもうボロボロで、だけど乾いたまましっかりと根を下ろしているようにみえた。でも、仮に根を下ろしていたとしてもーそんなことないけどー、新しい葉も芽も生えて出てくることはない。それくらい乾き切っている。

老人の指は節くれだっていて、例えば彼の薬指は、僕の人差し指と中指を足したくらいの太さだった。

静かに横たわる無数の板と、どこまでも続く、そしてもう使われることのない線路。

彼はその向こう側を指差すと、

「行ってみれば分かるよ。」

とだけ言った。

                 ・・・

でも、僕は実際向こうに何があるのかを知っていた。何度も本で読んだことがある。写真集だって持っている。

その消えてしまった村には小学生の頃から惹かれていた。当時生きていた祖父の部屋に入り込んだ時に見つけた写真集。白黒のフィルムに、当時の僕にとっては衝撃的なシーンばかりが収められていた。

「こんなところにいたのか。まだ少し早いと思うけど、まぁ、いい。どれ、こっちにおいで。」

祖父は部屋に戻ると、僕を書斎のソファーに座らせ、自分の引き出しを開けた。

「どれ、このお話もしてやろう。」

と、言いながら写真集の上にガサッと置いたのは古い封筒たちだった。

日に焼けたもの、煤のようなもので黒く汚れたもの。そのどれもが異国から来たとても古く、そして僕にとっては新しいものだ。

便箋にはみたことのもない文字がビッシリと書かれていた。

祖父が一行一行指でなぞりながら読み上げてくれたのだが、全く理解できなかったのは当然で、でも、その響きは僕の耳や目や毛穴を通して遮られることなく体に染み入った。

遠くから吹いてくる風みたいな音階を持った言葉だった。

                 ・・・

その時の祖父の手もゴツゴツとしていて、僕はそれを目の前の老人のものに重ねている。

その後大学で文学部を選んだ僕は、迷わずその風のような言語を担当している教授の部屋へと伺うと、祖父の部屋にあった写真や手紙について語った。もちろん、高校生になってある程度脳みそが大人になってから自分で調べていたことについても。

「そうでしたか。わかりました。」

そう言うと、教授は自分の本棚から、一冊の電話帳みたいなものを取り出して、

「君は文学部の学生だと言ったね?3年生になったらゼミが始まる。それまでにこの本を100回は読みなさい。そして全て頭に入れておきなさい。その後で、私のゼミにくるといい。その頃にはきっと卒論なんか簡単に書けているはずだ。そしたら、そんなものは適当に提出して、すぐに向こうへ行くんだ。」

電話帳は実際は辞書で、僕のアパートの家賃と同じくらいの値段のものだった。

その日から、僕の生活はその辞書を中心に回り始め、教授の言っていた通り100回読み返し、ゼミに入り、適当に卒論を書きー院試には合格できるくらいのー、そしてこの地へとやって来た。

僕は、その村を自分で見にやって来た。写真ではなく、自分で。

だけど、老人にそのエピソードを話すには、ここでは長すぎる。

「すみません。もしよろしければ、今日、お食事をご一緒していただけませんか。どうしてもお話ししたいことがあります。」

若い僕には、こうして真っ直ぐに伝えることしかできなかった。

老人は、

「うむ、いいだろう。うちに泊まるといい。家内も喜ぶ。」

と、言ってくれた。

「それにその、話したいこと、と言うのがどんなことなのか、なんとなくわかるよ。私たちの言葉をそう流暢に話す外国人はそういないし、そもそも尋ねてくる人間もいない。ましてや、君のようなアジア人はね。」

僕は半分諦めたように笑い、そしてバックパックから祖父の手紙を出して見せた。

「ほう、そうか。」

と、老人は言った。

「わかった。今夜だけと言わず、まぁ、ゆっくりすることになりそうだね。」

線路の向こう側には風がまた吹いて行って、金色の枯れ草、紫とオレンジの花々を一斉に揺らした。羊たちはメェメェと言いながら、草を食んでいる。

老人が立ち上がって指笛を一拭きすると、向こうの方から賢そうな犬が二匹、全速力で駆け戻って来た。

「さ、今日はもう帰ろう。」

そう言うと、二匹の犬はまた走り出し、羊たちをさっと囲みながら一つの塊みたいにまとめ上げた。

僕の知っている西日よりもずっと優しい光が、ここら一辺を照らしている。

僕らは立ち上がって、そのまま歩き出した。

風がまた吹いた気がしたが、もしかするとそれは老人の話す言葉だったかもしれない。

枯れ草も花も、穏やかに揺れ続けていた。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

Trio Mandiliで『Erti nakhvit』。



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