08/08/2020:『Summer's Loss』

生け簀の中を泳ぐ魚たちは、ただ同じところをぐるぐると行ったり来たりしていて、横からみると彼らの表情はとてもリラックスしているように見える。ゆったり体をくねらせながら、ただ冷たい水に体を預けて音もなく通過していく。布団の冷たい部分に手足を伸ばして触れると気持ちいいように、ずっと水の中を泳ぐ彼らは永久にその気持ち良さを感じているのかしら、と思う。

「それで、俺は言ってやったんだよ。そのままでいいのかって。」

店中の客が好き勝手な内容を自由なボリュームで話しているから、自然と僕らの声も大きくなる。店員の掛け声や有線のBGMもそれに掛け合わされて、これだけうるさいと逆に静かだな、とか意味の分からないことを考えていた。

彼はサラリーマンという仕事をしていて割と給料もいいらしいのだが、どの時代にもあるように、どうにも気にくわないことがあって、それによって悩まされ、それと闘っているらしい。

「明日明後日を見据えたら、そりゃ悪くない決断かもしれない。でもさ、もっと長い目で見たら、スケールを少し変えてしまえば絶対に悪い結果になるんだ。誰かが悲しい目にあうんだよ。それをわかってて、なのに、でも今は、その目先のことだけでいいように見えるから、それだけで決めてしまう。」

テーブルの上には2つのジョッキー彼のハイボール・僕のレモンチューハイーと、いくつかの小鉢が乱雑に配置されていて、例えば刺身の皿には血で滲んだツマしか残っていないし、冷奴はもう箸では掬えないくらい小さい破片になっていた。

「なぁ、お前はどう思う。聞かせてくれよ、フリーマン。」

僕は、彼の後ろにある生け簀を眺めていた。

ゆっくりと魚たちは泳いでいた。

                 ・・・

確か大学の喫煙所には飲み物もおけるくらい大きい灰皿テーブルが4つくらい設置されていた。僕らはいつも特に理由もなくA・B・C・Dのうち、BかCを使っていた。目の前に自販機がいくつも並んでいて、彼は紙コップのコーヒー自販機からブラックを買っていた。

「相変わらず、これはまずい。」

と、毎回こぼす彼に、

「どうして隣の缶コーヒーを買わないんだい。」

と、聞いた。

彼は少し考えて、

「情緒がない。」

と、だけ言った。言うに、熱い飲み物の入った紙コップの縁を掴んで、「熱い熱い」と言いながら飲むのがいいらしい。

「生き方の問題さ。」

とも付け加えた。

午後の授業は夕方前に終わっていて、僕らはそれぞれのバイトまですることがなかった。

高くまで設置されたネット。その中のグラウンドではサッカー部がランニングをしている。その脇の道路をスクーターや自転車が横切っていく。それらをただ視界に入れるだけで、僕らは見るとも見ずに、喫煙所の壁にもたれていた。

遠くで雲が流れる。

何と呼んだらいいか分からない時間が、気だるいタバコの香りと胸焼け寸前のコーヒーの苦味を混ぜわせていた。

                 ・・・

ジョッキがいつの間にかテーブルからなくなっていて、気がついたら日本酒を飲んでいた。壁にメニューの書かれた札が所狭しと並んでいて、ここから選ぶだけで夜が更けてしまいそうなくらいだ。お猪口に注いだ日本酒を飲むと、甘ったるい口当たりで、扁桃腺をすり抜けるうにして酒の重みが体に落ちていく。

「なぁ、お前はどう思う。聞かせてくれよ、フリーマン。」

僕は海外から帰ってきたばかりで、これと言ったことをしていなかった。亡くなった祖父が事務所代わりに使っていた小さな一軒家に寝泊まりしていて、役所の手続きやら荷物の整理やらでうまく日々を潰していた。

6年の海外生活を切り上げての帰国は僕の中でも結構なイベントで、まだその落差の間であてもなく泳ぎ続けているのだ。

「うん、長い目も短い目も、どちらか1つではやりきれないってこともあるんじゃないのかなぁ。」

「お、どういうことだ。」

「だってさ、湖のほとりで、お金がなく空腹で死にそうだっていっている人に「じゃ、この釣竿で魚を釣るといいさ」って言うのは意味あると思う?あるいは、「ほら、この魚を食べなよ。釣れたてだから。」って言ってもまだ足りない。食中毒で死んでしまうかもしれないからね。彼に必要なのは、「ねぇ、このサンドイッチをあげるよ。少しはマシになるからさ」という感じなんじゃないかな。その時のその人には、釣りも魚も、そんなものはいらないよ。」

もちろん、それでは貧困も暴力も、搾取も占領もなくなることはない。長い目では全くもってセンスのない解決策だ。でも、目の前で泣いている人がいて、その人に、「いいかい、まずはそうなった原因を上から順番にリストアップしてから、因果関係を洗っていこう」だなんて言ってどうする。

隣に座ってハンカチを差し出したり、肩に手をおいて頷いてあげたり。そういうことじゃないのか。

一息に言ってしまうと、

「うん、つまりは、生き方の問題か。」

とだけ、彼は言った。

そういうことなのかは分からなかったが、彼なりに感じてくれているのだと思い、何も言わなかった。

「ちょっとトイレに行ってくるよ。」

僕は席を立つと、壁をぐるっと回ったと所にある階段を上った。するとちょうどいまいた席の上に出る形となり、フロア全体を見渡すことができた。

ガヤガヤと蠢くように、食べ話す人たちの塊。その間を抜けていく店員の群。

横面から見ていた水槽が、今目の前にある。一段上がった分、僕は上から覗いている。横からはあんなに綺麗に仲間で見えた水槽が、水面が大胆に波打ち、揺れる照明の入射角のせいで中の魚たちがばらけてしまい、その姿がわからない。

冷たいところを探して泳ぐ魚たちだったのが、ただ不恰好に動いている物体のようにしか見えなくて、でもそれは決して止まることがなくて、僕はただ見下ろしていた。

今の僕もただ生きる物体に過ぎないのか。それともはっきりとした輪郭を持つ、冷たい水を求めて泳ぐ魚でいれているのだろうか。

だんだんフロアの景色もぼやけてきて、ただそれでも喧騒は音量を増し、そして逆に静寂が僕を包んだ。

僕を包んだ。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

夏が来て、また冬が来るのさ。

Ben Westbeechで『Summer's Loss』。


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