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『神話(五年目)』について

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展示中止

長引くコロナの影響を考え、5年目の展示もなしにしました。うーーん、来年はできたらいいのだけど。。。うーーーん。。。

その代わり、また、新しいおまけがあります。ぶっとびますよ。


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「神話 五年目」テキスト

 声が見えない。声が聞こえない。声がうたにならない。声が叫びにならない。声が遠い。声が埋もれていく。声がこんなにも溢れているのに、あらゆる声は己の正義を振りかざして、あらゆる声を絞め殺していく。声が。声が。声が。声がめぐらない。声が溶けている。声の真実みが損なわれていく。耳だけで聞くものじゃない。口先だけをついて出るだけのものじゃない。身体と心と臓腑で聞くものだのに。声以前の聲を、聞きたい。喉の肉をくぐりぬけて切り裂くように放たれた刃を、聞きたい。

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 解明されたものから解明されないものまでの幅が、ある意味をもって拡がり連なっているのである。この幅が、神話というものである。そこを一方の端から端まで歩いてゆくこと。そしてそこから再びもとの端へと引き返してくること。この往還のあいだにしか現代が感得しうる神話は存在しない。日常性の片隅に、感受性の先鋭化に、原型の再現に種々見出される神話的な表現や形が、単なる断片として終わらずに一定の持続をもった生となりえたとき、はじめて現代は神話をもちうるだろう。還元すれば、それが神話を生きるということに他ならない。日常の一齣一齣に神話がある。これは何でもないようであり、またこんなにむずかしいこともないと思われるわれわれの現実なのである。
『起源からの光』高橋英夫

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 『神話』においての最終目標は、写真ではない。
 今、われわれは何の現象に包まれながらここにあるのかという摂理がひと目で理解できるような瞬間の写真を通して、それを見た私自身が、自分自身の生きる立ち位置を正そうとふと思わされるほどの可能性を拓くところにある。

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 私たちの世代は「科学技術」に倫理を与える義務があります。これからも、科学技術は私たちの子孫、子どもたちと共にあるのです。一度発明されてしまったものを、消すことはできません。原子核という極小の世界から巨大なエネルギーを取り出す人間の叡智は、物質の限界まで達してしまいました。
『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ』田口ランディ

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 「それでは原始に還れということか」とか「人間の築いた文明を棄てろということか」といった反応が必ず返ってくるであろう。もちろんけっしてそうではない。(略)歩むべき方向は明らかというべきだろう。他の生物とのよりよい相互作用、すなわち共生が可能なように、人間の営みを位置づけていくことである。文化を自然との共生という観点から見直し、またそれに沿って成熟させていくことである。自然科学も同じである。この目標の中では、原発のような巨大技術や生命軽視の科学技術は否定されていくことになるだろうが、科学技術一般が否定されたり、人間の知的営みが否定されたりするようなことはあり得まい。いや、よりよい共生のためにこそ、私たちはこれから大きな知的努力をふりむけなくてはならないだろう。
『高木仁三郎セレクション』高木仁三郎

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 家から徒歩1分のところに公園があった。猫の額ほどの本当に小さな公園へ、歩けるようになったばかりの1歳4ヶ月の彼とよく行っていた。
 歩くのが心から楽しいようで、いろんなところへ潜り込んでいた。滑り台の支柱のまわりを延々と回ったり、木々の間を抜けていったり、ただただまっしぐらに駆けていったり。
 ひとつ歩けば笑い、ふたつみっつ歩けばさらに笑い……、歩くことを全力で謳歌していた。歩けば歩くほど、私の思うままに世界が変わっていく。歩けば歩くほど、世界が私を追いかける。きっとそういう感じで、世界とむつみあっているのではないだろうか。だからこそ、歩くことをいつまでも楽しんで笑えている。
 この公園は春になるとユキヤナギがわっと咲く。毎年見てきて、見慣れた光景だと思っていた。けれども彼がそこに潜り込んだ瞬間、世界が一変してコスモスが広がっていた。
 コスモス=美的な秩序に貫かれた地球とそのまわりの宇宙。
 自分で撮ろうと思って撮れたものなんて、たいしたことないのだ。ほとほと思い知らされた。

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「たいよう、つかまえちゃうぞ!」と、水たまりに反射する光に向かって5歳の彼は言った。
 子どもは、言葉の生まれる土台に直接立っている。広く深いその領域は世界と言い換えてもよいだろう。世界と等しく釣り合っているからだだからこそ、生まれることばだった。
 太陽は、地球から、一億四千九百六十万キロメートル離れているという知識を得るとき、「太陽」は、抽象化された記号となる。そのとき、世界に立って生きていたからだが、記号や知識に覆い隠される。
 片やが発達すると同時に、片やは衰えていく。私もかつて確かに世界とともに生きていた。けれども、知識に覆われてもはや遠い。
 私は彼に知識を与えると同時に、世界と生きている彼らを師と賜り、世界を具体的なままに見つめることを学び直す。

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−−私は彼だろう、私は沈黙だろう、私は沈黙のなかにいるだろう、私たちはいっしょになるだろう、語るべきなのは彼の物語なのだ、しかし彼には物語がない、彼は物語のなかにはいなかった、これは確かではない、彼は彼自身の、想像もできない、言葉に表せない物語のなかにいる、どうでもいい、やってみなければならない、どこからきたのかわからない私の古臭い物語のなかに、彼の物語を見出すこと、そこに彼の物語があるにちがいない、それは彼の物語である前に私のものであったにちがいない私はそれを見分けるだろう、最後にはそれを見分けるだろう、彼が決して捨てたことのない沈黙の物語、私が決して捨ててはならなかった、たぶん私が決して再び見出すことがない、たぶん私が見出すだろう沈黙の物語−−
『名づけられないもの』サミュエル・ベケット、宇野邦一訳

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 コロナ禍の影響が本格化した3月から、どこにも行けなくなってしまった。どこにも行けない2020年だった。
 ネットの文章も、テレビやパソコン映像全般も、目をすべってしまって全然楽しめない。スルッとなんでも手に届くかのような手軽さが、ときどき、ぞわっとするほどいやったらしかった。
 なにもかも上滑りするこの時期、ちょうどよい塩梅で向き合えたのが『神話』の写真だった。改めて見直すと、まったく意味が変わって見えた。もはや私の手を離れている写真たちだった。沈黙しながら動かない一枚の写真を、ぼんやり見ていると、凝り固まった思考がほぐれるものを感じた。
 『神話』で行われているものは、どんなところでも、どんな瞬間でも、目のまえのあらゆることごとくを数字で束ねることもせず、ひとつひとつとして向き合いながらのとほうもない遊びに全力を傾ける子どもによる祭りだった。以前は、そんなふうにして見たことはなかった。
 翼もなく、船に乗るでもなく、歩みもなく、ここにいる。閉塞したこのたった今の目の前に広がっているものはやはりある。そのひとつひとつをひとつひとつのままに見ることの困難な優雅さがある。それを思い出すことができた。そうして2020年を写真に救われた。

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 ウェンディーが言うには、今日でもアボリジニの母親は、子供が初めてしゃべりそうな兆候を見せると、葉や果物や昆虫など、その土地特有の”物”を持たせてやるそうだ。
 子供は母親の胸のなかで、それをもてあそび、話しかけ、かじってみる。そうしてその名前を覚え、繰り返して、やがてぽいと放り出す。
 「私たちは子供に玩具の銃やコンピュータ・ゲームを与えるけど」ウェンディーは言った。「アボリジニは子供に土地を与えるのよ」
『ソングライン』ブルース・チャトウィン

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 右どなりに、君がいる。左どなりには、お前がいる。正面に、背後に、きゃつらが。上にはあいつが、下にはあの人がいる。むこうには彼がいて、あっちには彼女がいて。
 ひとりずつの顔を思う。みんな、違う顔をしている。私が、誰も知らない思い出を抱えているように、みんなもそれぞれの悲しみと喜びを抱えている。
 似るものも交わることもない不揃いの粒。それが私たちの姿。生老病死という普遍が、唯一、私たちを貫く。それによって私たちは、かろうじて連なりあう。
 いつ、私は気づいたのだろう。無力で孤独な粒の私は、それでもなお、ひとつの画を描くにあたって欠かすことのできない、大いなる一部だったのだと。

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 「だとすれば時間のなかにはいかなる連続性も割り当てられず、その結果、人間的に言うなら、過去も未来も存在しないように思われる」
 このような時間の大乱調、われわれの「文化における不安」の核心にあるのが、イメージの問題なのである。イメージを見ながら、それらのイメージが何の生き残りなのかを見て取ることができなければなるまい。歴史が、純然たる過去(この絶対、この抽象化)から解き放たれて、われわれに時間の現在を開かせてくれるものとなるために。
「イメージ、それでもなお」ジョルジュ・ディディ=ユベルマン

○ ○

なまめかしい肌に手を這わせる。その肌は、川の水しぶきをあびて、つめたく、づるんとしている。
凍えきった身体をあたためるように、あらゆるところを、さすりつづける。ああ、ここは、ほのかにあたたかい。光が、時間をかけて、あたためたのだ。
皺のひだに指を這わせる。ぞり、ぞり、ぞり、ぞり。指先のはいりきらない皺の奥で、永遠のくらがりがうごめくのを感じる。
それを抱きしめる。私がそれを抱いているのか、それに私が抱かれているのか。
亡き祖父の手触りが、岩肌から聴こえた。

○ ○

 私が写真において見ているものは、生命がもつ可能性だけ。孤独や死をふくむ風景は、己の掌のなかにある宇宙にも気づかされる。そういうものを信じたい。理屈ではなく、目の歓喜で。ずっとそれだけ。これからもそれだけ。
 現在、5歳6ヶ月と2歳6ヶ月の、神のうちの存在との生活は、熊本に住まいを移してよりばたばたと過ぎていきます。車をひょいと走らせるだけで、あらゆるところに撮影にふさわしいところを見いだせる。なんということだ、と、驚いています。コツコツ、コツコツ、撮影を重ねながら『神話 六年目』へと。
 来年もまた健やかにお目にかかれますよう、どうぞみなさま、ごきげんよう。

2021年5月9日 齋藤陽道

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冊子について

 『神話 五年目』冊子、700部限定です。

 「一年目」「二年目」「三年目」「四年目」は、それぞれに、在庫100部という感じで残っています。もってないという方は、ぜひに。

ご入用の方は、「神話5年目、冊子くださいな。こちらに送ってくださいよ(郵便番号、必須!)」とメールをください。

ちょっと誤解されているのですが、前々のぶんもおもちくださった方に、ぼくから自動的にお送りする、ということはないです。
毎年、そのつど、新たに、ご連絡もとい、ことばをくださいませ。

なにげに、この年賀状や寒中見舞いのような年1のこのやりとりがけっこううれしかったりするので、どうぞよろしくおねがいします。

連絡先:
info@saitoharumichi.com

連絡をいただいたら、まず冊子を送ります。
とどいた冊子のなかに、振込先についての詳細があります。
冊子をみていただいて、写真に出会ってもらって、「ほーん、来年はどんな写真ができるのかな、応援しちゃろ」と思っていただけたら、

 冊子の価格は、
「1200円(送料込み)」+「旅費及び撮影費へのお気持ち(いくらでもおっけいです)」
でお願いしています。

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おまけ

【本文は、ここまでです。以下は、この最近の家族写真20枚があります。見ても見なくても変わりないですが、応援するかんじで、投げ銭的に、見てもらえたらうれしいです。
それがぼくの、ハイボール代になります。あるいは、まなみの畑の苗代。またもやのあるいは、樹さんのLaQ代。さてもやのあるいは、畔さんのいきなりだんご代。ありがとう】

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