【書評】上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』

ああそうか。四年間、途切れることなく客をとる日々とは、こうやって知らないひとの車に乗り込んで、そのひとの目の前でくつろいでいるような顔をして、その実、相手のほうをリラックスさせる日々だったことを了解する。」(208-9頁:著者の上間陽子が「春菜」を車にのせた時のこと)

 話をききだし、話をかきとめ、そして誰かにその話をよんでもらうこと。こうした営みの真の意義について論じる能力は評者にはないし、論じようとも思わない。ただ、『裸足で逃げる』(以下、本書)は、そうした営みに何かしらの意義が宿っていることを伝えようとしているように思える。どんな意義があるのか、はっきりとはわからない。しかし確かに、意義があるのだ、と訴えかけてくる。そんな一冊である。

 著者は沖縄をフィールドとする研究者だ。本書は主に沖縄で水商売によって生計を立てるシングルマザーなどに対して行ったインタビュー調査を、一種のルポのかたちで編集したものだといえる。ここで取りあげられる6つの話は、それぞれ形式的には独立している。だから、読者は気になる話だけ選び出して読むこともできる。

 評者はいま「形式的には独立している」と言った。その真意はけっきょくここで語られていることの根底には「沖縄」をめぐる問題系があり、一見するとバラバラにみえる話も全て「沖縄」という地面から生えている、ということだ。

 著者と同じく沖縄をフィールドとしている社会学者の岸政彦は長年の調査の経験に基づいて、沖縄における階層を3つに分けている。沖縄大学や内地(=日本の本土)の大学を出て、教員や公務員になった「安定層」、高卒や専門学校卒で、地元のコミュニティーの中で生きる「中間層」、安定した職にもつかづ、地元のコミュニティーにすら居場所がない「不安定層」。岸はこうした区分で、沖縄に対して幻想的なイメージ、つまり、素朴な共同体が強固にあるというイメージに待ったをかける。そうしたイメージに当てはまるのは、「中間層」だけだ、と。さらに、そうした共同体は外部者の安易な想像とは異なり、「不安定層」を容赦なく排除する残酷さを備えていること、を示唆する。(岸政彦2016を参照した。)

 だが、岸の洞察は、こうした経済・職業的な差異以外にも、看過せざる差異があることを捉える。その差異が「ジェンダー」である(岸政彦2016を参照)。
 男性と女性という差異とその差異の非対称性が起こす病理は沖縄でも蔓延している。いや、沖縄でこそ、猛威を振るっているといってもよい。本書はそうした事態をもっとも厳しい立場におかれている女性たちの話を書き綴ることで暗示している。

 すでに述べたが、本書の主役たちは水商売で働くシングルマザーたちである。そうおもって、読んでいると最後の最後で、「あれ?」と思う。6人目の女性はシングルマザーでなければ、キャバクラなどで働いているわけでもない。しかも、その女性と著者の関係はインタビューのあと、切れてしまったようだ。本書全体から見れば、この女性は変わり種かもしれない。それにもかかわらず、評者にとってはもっとも印象に残ったのだ。

音のもれないカラオケボックスに入るとすぐに、春菜はこれまでの生活のことを話しはじめた。なぜ自分は十五歳のときに家出をしたのか、それから四年間、どう過ごしてきたのか。その日、私が春菜を訪ねたのは、四年間の生活や仕事の話だった。でも語られていたのは、何度も家族が変わるなかで暮らしていた女の子が、自分の『おうち』にいられなくなって、ひとりでそこを出て行って、恋人と一緒に生活するために『援助交際』をし続けて、そしてもう一度自分の『おうち』に帰っていった話だった。」(210頁)

 この少女(「春菜」)の父親は彼女が14歳のときに、彼女と自分の恋人を「おうち」に残して、東京に出稼ぎに行ってしまう(ああ...沖縄!)。もちろん、そんな家は14歳の少女にとって居心地がよいものではなく、彼女は15歳のときに家出をする。そして、セックスをすることでお金をえる生活を始める。
 そうした生活で彼女が体験せざるをえなかった悲惨には、あまりにもあまりにもリアリティがない。売春中の性暴力から身を守るために友達の女の子を混ぜた「3P」をサービスの基本にしたこと、17歳で九州に出稼ぎにいき、一回につき1万5000円のサービスで150万円もの貯金を作ったこと、しかし、そうした貯金も彼氏にぶんどられてしまったこと。どうしてこうした事態に対して、男性であり、関東圏出身であり、大学卒である評者がリアリティをもてるだろうか。

 評者はもちろん著者の叙述や女の子の発言の真偽を疑っているわけではない。むしろ、それらを信じているからこそ、評者自身がこうした出来事にリアリティを感じられないことを痛感せざるをえないのである。
 彼女がしていたような「援助交際」などの売春行為が行なわれている現実は様々なルポや研究によって明らかになっている。それくらいは評者でも知っている。しかし、知っていることと感じることは違う。事実とリアリティの乖離と言おうか、もしくは現実そのものと現実性の乖離と言おうか。ともかく、彼女の体験は評者にとって生々しさがない。しかし、彼女にとっては何よりも生々しい経験だったはずだ。彼女は「3P」に切り替えるきっかけとなった事件を次のように語る。

『わぁ、何が起きてるんだろー』と思って、で、引っ張られてベッドまで連れて行かされて、なぐりかかられそうなって、でも、必死で抵抗して、蹴ったり蹴っ飛ばしたりしてて、そしたら相手あきらめて。なんかたぶんDVのケはあったみたいで(中略)。『とりあえず帰して』、っていって、ホテルから出たら、いきなり手握ってきて、『ほんとにごめん、こんな思いさせないから、もう一回ホテルに戻ろう』っていわれて。そんなの信用できないから、「とりあえず、ここでいいから降ろして』って。」(231-2頁)

 九州に出稼ぎにいった後の話も引用しよう。引用文中の「和樹」とは「春菜」の「援助交際」の仲介役であり、彼氏でもある人物だ。

このお金一五〇万ぐらい貯めて帰ってきたときに、結局、(沖縄に)帰る前に自分はやりたいこといっぱいあるから、ひとり、いくらいくらって決めて、一〇万、一〇万ぐらいねって。自分、美容室行って買い物して、バーって行って帰ってきて。『別に、もう仕事しなくていいや』ってなるから、お金あるから。ああーって遊んでたら、『どこ行きたい?』『暇だねー』『百スロ行く?』別にいくら使おうが『あっふーん(=気にしない)』みたいな。と、思ってたら、和樹、自練(=自動車教習所)行かして、車買って、ってやってたら、『なんでこんなお金がなくなる?』みたいな。........でも後々、和樹のお金の管理が適当になってきて。もうなんか自分がやりたいって思ったら、『ねえ春菜』、みたいなかんじだったから......。」(235-6頁)

 あえて、これ以上、評者が本書の中身についてあーだこーだ言うのをよそう。最後に一言だけ。あなたは「春菜」の体験に対してリアリティを持てないかもしれない(そう、それは評者のように)。それにもかかわらず、私たちは物事の真偽を主観的なリアリティで判断しがちだ。しかし、それは危険な独断ではないか。もし、悲惨な出来事ほどリアリティがないものだとするなら、リアリティで物事の真偽を判断している限り、悲惨な出来事ほど否定することになってしまう。また、自分自身のポジションから遠い出来事ほどリアリティを感じにくいので、否定しまうことになる。
 「春菜」の事例が最も強烈だったので、その話をとりあげたが、本書に掲載されている他の話だって、評者にとってはリアリティが薄いものばかりだ。しかし、それは当然といえば当然だ。なぜなら、「典型的」な「日本人」の人生とは異なる人生がそこでは語られているのだから。「沖縄の夜の街の少女たち」の現実がいくらドラマじみていたとしても、あなたの世界からかけ離れていても、それは現実なのだ。本書をフィクション的に消費することもできるがオススメしない。現実味を感じられなくても、生きた人間が語った事実として読む(=聴く)ことをオススメする。なぜなら、そうやって読んだ場合にだけ、「沖縄」と「少女」の現実が聴こえてくるから。

【文献】
上間陽子,2017,『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』太田出版.
岸政彦,2016,「錯綜する境界線 沖縄の階層とジェンダー」『フォーラム現代社会学』(15):63-78.

 

 

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