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ジュリー!スターは作るもの?なるもの?育てるもの?

書店である本を見つけました。
「ジュリーがいた 沢田研二 56年の光芒」(島﨑今日子著/文藝春秋出版)。何を隠そう、私が一番最初に好きになったスターは、沢田研二=ジュリーです。
記憶では、自分が小学~中学年の頃、歌謡曲(ポップス)を聴き始めたのですが、そのタイミングがジュリーが「勝手にしやがれ」でレコード大賞を獲った直後でした。
まさに、ジュリーがとてつもないトップギア!に入ったタイミング!
それまではアニソンしか聴いていなかった田舎の少年にとって、(中国のそれとは全く違う意味での)文化大革命!
もうそれからジュリーに夢中でした。
そんなジュリーのデビューから今に至る歴史が、多くの証言とともに綴られている一冊。
一気に読んでしまいました。

ジュリーが愛称からIPに

ジュリーという名前はご存知の通り、「ザ・タイガース」でデビューした時からの沢田さんの愛称です。
ちなみに岸部一徳さんはサリー。
燻銀の大俳優である岸部さんですが、ベーシストとしての腕はかなりのモノ。
日本のロック創世記を支えたバンドベースマンです。
なかなか、かっこいいですよね。
さて、岸部一徳論はさておき、そんなバンドメンバーでの愛称であった「ジュリー」が一つのIPになっていくのは、沢田さんがソロになってから。
しかも「勝手にしやがれ」の頃からなんだと、私、この本を読んで思いました。
レコード大賞を獲得したこの楽曲の前にも大ヒット名曲はあり、オリコンによる沢田研二シングル売り上げのトップは1975年にリリースされた「時の過ぎゆくままに」。
ベスト5で言うと、2位が「勝手にしやがれ」3位「危険なふたり」4位「憎みきれないろくでなし」5位「追憶」で、ベスト5のうち3曲がレコ大受賞前の曲です。
そう、レコ大を獲ったその時すでに沢田研二は大大大スターだったわけです。
ジュリーはそんな大スターの代名詞だったのですが、それが「勝手にしやがれ」でもう一段、いや天井知らずに上がっていくのです。

チームジュリーで「ジュリー」を創り出す

詳しい話は是非この本を読んでいただければと思いますが、「勝手にしやがれ」と言えば、そう「ボルサリーノを投げる」です。
あれ、真似しましたね〜、教室で。
まぁ、投げたのは野球帽でしたけど(ちなみに巨人の帽子被っていました、あの頃)。
私が思うに、それまでのジュリーは沢田研二をどう見せるか?という視点で作られていたのですが、「勝手にしやがれ」からは1曲ごとに“ジュリーでどんな作品を世に放つか?“というスタンスになったのではないか、と。
だから、ジュリーである沢田さんも、一員となった「チームジュリー」でジュリーというアーティストに何をさせるか?どうしたら世の中の人をびっくりわくわくさせられるのか?という創造活動になったのではないかと思います。
そしてそれが、楽曲は勿論ですが、「ビジュアルへのこだわり」へと繋がっていくわけです。
ジュリーのビジュアルというと、やはり「TOKIO」のパラシュートが思い浮かびますが、今では当たり前の男性アーティストのメイクもジュリーが元祖。
ビジュアル系バンドもK-POPも⁉︎元祖はジュリーなのです。
ですが、素のご本人は家にいる時は空手着というほどのバリバリの硬派でして、メイクは「ジュリー」を創り上げるためにしたことなのだそうです。

沢田研二という稀代の存在がいたからこそ生まれた「ジュリー」。
そんなジュリーをスターに育て上げたプロフェッショナル軍団。
そのスタージュリーを更に高みに持っていったチームジュリー。
スターになる、育てる、創り上げる―――
その根底にあったのは、どうしたら世の中の人を「あっ」と言わせられるだろうか?というエンターテイメントの純粋性だったのではないかと思います。
この本でジュリーの活動の内容を読むとそれをとても感じるとともに、それは、エンターテイメント業界の一員として、忘れてはいけない大切な姿勢だと改めて思うのでした。

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