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生牡蠣が食べたくなる季節

牡蠣の美味しい時期真っ最中になる。そういえばこの冬、まだ牡蠣を楽しんでいなかった。今週末は牡蠣とワインを合わせて楽しみたいなと思う。そのうち、なんて言っていると旬はすぐに過ぎてしまうので。

子供の頃から牡蠣が好きだったかと言えば、嫌いではなかったけれどあの独特の磯臭さにはなかなか慣れなかった。美味しそうに揚がったサクサクのカキフライを噛むと、ぐにゃっとした食感に海藻を煮詰めたような苦く生臭い香りが口に広がって、それをソースやレモン醤油でごまかして飲み込む。今にして思えば子供にとってあまり好ましくない味わいだったと思う。けれど決して嫌いではなかった。複雑な思いでひとつ平らげたら、なぜかもうひとつと箸を伸ばしてしまうような、癖になるような感覚を子供ながらに覚えたのかも知れない。

ちょうど小学生の頃、チェーホフの短編「かき」を読んだ。

ぼくは、とたんに、この見たことのない海の生きものを、心の中でえがいてみる。それは、きっと、さかなとえびのあいのこにちがいない。

当時「かき」と聞いて思い浮かぶのは馴染みのある「柿」のほうで、同じ音を持つ食べ物が他にあることが不思議だった。貝であることは母が教えてくれたが、生態もわからなかったし図鑑を見ても今一つピンと来なかった。そのせいかこの主人公の少年が未知の生きもの「かき」を想像してみる描写が妙に頭に残っていた。生臭くて、魚でもなく海老でもない、海の生きものを口にするたびに。

そんな彼に、父親がこう語りかける。「生きたまま食べるのさ。……」その途端、私の中でその生きものがあのカキフライと繋がらなくなった。子供だった私にとって牡蠣を生で食べるという概念はもちろんなく、父親が言うところの「かめのようにかたいからをかぶっている」という姿、少年が思い浮かべる「一匹のかえるがからの中にうずくまって、そこから大きなぎらぎら光る二つの目を見はりながら、気味のわるいあごをもぐもぐ動かしている」姿。それが白い皿の上でキャベツを添えられてソースのかかった、母の作る美味しいカキフライとは到底同じものと思えなかったのだ。

さらに少年の想像は続く。

からをかぶり、両目をぎらぎらかがやかせ、つるつるした皮膚におおわれた、この生きものを市場から運んでくるありさまを、心にえがいてみる。(中略)その生きもののはさみをつかんで皿の上にのせ、食堂に運ぶ。おとなの人たちが、それを取って食べる。……生きたまま、目玉も、歯も、足もそろったやつを!その生きものは、きゅうきゅう鳴いて、くちびるにかみつこうともがく……

そして少年はその得体の知れない生き物を食べる妄想に駆られる。数日間何も食べておらず倒れそうな身体を振り絞って叫ぶ。かきをおくれよ!と。つめたい小雨の降るモスクワの往来の中で。

面白半分に彼の訴えに乗った二人の紳士が少年を料理屋に連れていき、牡蠣を食べさせる。それは「すべすべしてしおからい、水っぽくてかびくさい」ものだった。殻まで噛み砕く勢いでそれを貪る少年の姿に当時の私は驚きを覚えた。ああ、それは生で食べていいものなのか。しかしどこか「いけないこと」のように子供心に思えた。なぜなら周りの大人たちが生で牡蠣を食べる姿など見たことが無かったから。

初めて生牡蠣を食べたのは遅れ馳せながら社会人になってからだった。出張で行った宮城県で、ちょうど寒い時期ということもあり牡蠣を食べさせる店に連れて行ってもらった。殻に入った新鮮な牡蠣を、ポン酢と紅葉おろしで食べる。つるりとした食感と海水そのもののような塩辛さ。「生」という言葉が最も似合う食べ物がこれなのかも知れないと思った。その時にあの感覚が繋がった。すべすべしてしおからい、水っぽくてかびくさい……もちろんかびくさいという表現はふさわしくないが、これがあの「かき」なのだと。

あれから冬になると必ずと言っていい程生牡蠣を楽しんだ。レモンを絞って海水そのままの塩気があればいい。紅葉おろしに小ねぎを散らしてポン酢でつるりと食べるのもいい。美味しいお酒があれば言うことなし。しかしながら近年はめっきり食べる頻度が減ってしまった。一度夫が会社の飲み会で生牡蠣に当たり文字通りの七転八倒、私自身は一度も当たったことがないけれど何だか怖くなってしまったのも確かだ。

とはいえ牡蠣が好きなことに変わりはない。刻んだ生姜をたっぷり入れてこっくりと煮たしぐれ煮や、生食用の牡蠣をさらに湯通ししてポン酢で。またはキムチと和えて。しかし生牡蠣をシンプルに楽しむのがやはり一番好きだ。つるりと口に放り込み、海の匂いと塩気が口に広がる度に、あのモスクワの少年を思い出すのだ。






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