佐伯惟治公と「椿の栂牟礼山」。
「栂牟礼山(とがむれやま)」は、椿の楽園。
ということで、今回は・・・
栂牟礼城址を擁する山「栂牟礼山(223.6m)」です。
新緑の美しい時期で、自然がきらきらしています。
ご案内の通り、ここは城跡(山城)です。
1521年に大友氏 配下の「佐伯 惟治(さいきこれはる)公」によって築かれました。
登山で尾根までたどり着くと、いつもほっとします。
歩くのが楽だからです。
しかし、それをさせないように、防御のため、
ところどころ尾根が削られております。
今も歴史の足跡が残っていることに、感動です!
*
それだけでなく、そもそもこの山は急傾斜なポイントがあり、
防御に強い山城であったと理解できます。
佐伯 惟治公は、優秀な人物であったそうで、
延岡市の「御頭神社」では学問の神様として、信仰を集めています。
*
しかし、惟治公はその優秀さを妬まれ、悲運の死を遂げています。
・・・大友 義鑑氏への「謀反の企て」という、
事実無根の告げ口が発端でした。
(大友義鑑は、あの大友宗麟の父親です。)
そこから栂牟礼城は攻められます。
しかし、険しい山であったために落とされずに堪え凌ぎます。
その兵は、2万人であったとのこと、まさに鉄壁の山城ですね。
*
しかし、人の良かった「佐伯 惟治公」は騙されます。
鉄壁の栂牟礼城を前に、
「大友氏が怒りを解くので、日向の国に身を寄せよ」と欺かれたのです。
その後、素直にしたがった佐伯 惟治公は、延岡市の北川で命を狙われ、
最後は自害をします。
*
生き残った家臣たちは、
「主君 佐伯惟治公の『首』だけは敵に渡してはならない」と、
布に包み、逃げ辿りついた寺が、今日の「御頭神社」であるそうです。
*
余談ですが、切腹には介錯がほんとにあったということですよね・・・。
死生観が違いますね。命と向き合って、生きていきたいものです。
この栂牟礼山は、椿の原生林が広がっており、
その数3000本以上とも言われているようです。
椿の花は、花びらが散るのではなく、花まるごとポトリと落ちます。
未練がましくなく、潔い花の姿は落ちてなお美しいです。
*
しかし、かつて武士たちは「首が落ちる様子に似ている」ため、椿を嫌っていたそうですね。
首といえば、「佐伯 惟治公」を、思い重ねてしまいます。
*
栂牟礼山に椿が多いのは、「惟治公の強い思いの表れ」とは言いませんが、
この山が「城として山林が切り開かれた時期があった」こととは
関係があるはずです。
「椿の原生林のあるエリア」と「栂牟礼城のエリア」がほぼ重なる
ということはそういうことでしょう。
佐伯惟治公は33年の生涯でありました。
しかし、若くして優れた政治を行い、民や家来の信望を集めたそうです。
今のこの佐伯市をどう見るでしょうか。
そして、わたしたちは潔く暮らせているのだろうか。
栂牟礼山の「椿」に、その歴史に思いを馳せながら、
次の年も満開の椿を楽しみたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?