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佐伯惟治公と「椿の栂牟礼山」。

栂牟礼山(とがむれやま)」は、椿の楽園

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ということで、今回は・・・

栂牟礼城址を擁する山「栂牟礼山(223.6m)」です。

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新緑の美しい時期で、自然がきらきらしています。

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ご案内の通り、ここは城跡(山城)です。

1521年に大友氏 配下の「佐伯 惟治(さいきこれはる)公」によって築かれました。

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登山で尾根までたどり着くと、いつもほっとします。

歩くのが楽だからです。

しかし、それをさせないように、防御のため

ところどころ尾根が削られております。

今も歴史の足跡が残っていることに、感動です!

それだけでなく、そもそもこの山は急傾斜なポイントがあり、

防御に強い山城であったと理解できます。

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佐伯 惟治公は、優秀な人物であったそうで、

延岡市の「御頭神社」では学問の神様として、信仰を集めています。

しかし、惟治公はその優秀さを妬まれ、悲運の死を遂げています。

・・・大友 義鑑氏への「謀反の企て」という、

事実無根の告げ口が発端でした。

(大友義鑑は、あの大友宗麟の父親です。)

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そこから栂牟礼城は攻められます

しかし、険しい山であったために落とされずに堪え凌ぎます

その兵は、2万人であったとのこと、まさに鉄壁の山城ですね。

しかし、人の良かった「佐伯 惟治公」は騙されます

鉄壁の栂牟礼城を前に、

大友氏が怒りを解くので、日向の国に身を寄せよ」と欺かれたのです。

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その後、素直にしたがった佐伯 惟治公は、延岡市の北川で命を狙われ

最後は自害をします。

生き残った家臣たちは、

「主君 佐伯惟治公の『首』だけは敵に渡してはならない」と、

布に包み、逃げ辿りついた寺が、今日の「御頭神社」であるそうです。

余談ですが、切腹には介錯がほんとにあったということですよね・・・。

死生観が違いますね。命と向き合って、生きていきたいものです。

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この栂牟礼山は、椿の原生林が広がっており、

その数3000本以上とも言われているようです。

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椿の花は、花びらが散るのではなく、花まるごとポトリと落ちます

未練がましくなく、潔い花の姿は落ちてなお美しいです。

しかし、かつて武士たちは「首が落ちる様子に似ている」ため、椿を嫌っていたそうですね。

首といえば、「佐伯  惟治公」を、思い重ねてしまいます。

栂牟礼山に椿が多いのは、「惟治公の強い思いの表れ」とは言いませんが、

この山が「城として山林が切り開かれた時期があった」こととは

関係があるはずです。

「椿の原生林のあるエリア」「栂牟礼城のエリア」ほぼ重なる

ということはそういうことでしょう。

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佐伯惟治公は33年の生涯でありました。

しかし、若くして優れた政治を行い、民や家来の信望を集めたそうです。

今のこの佐伯市をどう見るでしょうか。

そして、わたしたちは潔く暮らせているのだろうか。

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栂牟礼山の「椿」に、その歴史に思いを馳せながら、

次の年も満開の椿を楽しみたいと思います。

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