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誰も手を挙げないあの沈黙を、率先して断つ子にしてくれた先生

こう見えて、小学二年生までは「超」がつくほど人見知りだった。目立つ事が苦手で、決して前に出るようなタイプではなかった。

小学校入学前、あれは説明会的なものだったのだろうか、今でも鮮明に覚えている事がある。

5人ずつぐらいが教室に呼ばれ、先生からお名前や通っていた幼稚園・保育園について質問されるのである。教室の中央に人数分の椅子が等間隔に並んでいた。入室した順番に奥から座った。

先生から名前を呼ばれたら返事をする。
小さな声で返事をするのが精いっぱい。

次は、左端の児童から「どこの幼稚園、保育園に通っていましたか?」的な質問がされる。

1番目の児童「めぐみようちえんです」

2番目の児童「めぐみようちえんです」

3番目の児童「めぐみようちえんです」

わたし「め、めぐみ、ようちえん、です…」


5番目の児童が何と答えたのか、これっぽっちも記憶にない。

何を隠そう私は「めぐみようちえん」ではなかった。寧ろ初耳。
しかし、まさかの「めぐみようちえん」が冒頭から続き、完全に動揺したのだ。3連チャンでめぐみだなんて想像もしていなかった。
正々堂々と「えいこうようちえんです」と言えばよいものの、私は先の3人と同じく「めぐみようちえん」と答えてしまった。

恐らく先生は、手元の名簿を見返しながら
「あれ?違うのに、はて?」
と不思議に思っただろう。でもまあ、1学年5クラスもあるジャンボ小学校、大勢の児童が入学してくるわけし、恥ずかしがりやさんも、もじもじさんも珍しくはなかったかもしれない。

右手と右足が同時に前にでるぐらい緊張して臨んだ小学校での初の問答で、自身でさえ耳を疑う「めぐみようちえん」と返答をしてしまったことを、6歳の私は長く引きづった。恐らく誰にも言ったことがない。

こんな風に人と違う返答を口にすることすら抵抗があり、おとなしく控えめな性格だった私は、市原悦子さん似のやや年配でベテランの京子先生のご指導の下、想像どおり先生の言う事をよく聞く、可もなく不可もない、扱いやすいお利口さんとして1年生、2年生を過ごした。

そして迎えた3年生。2年ごとにクラスと担任の入れ替えが行われる小学校で、初めて経験するクラス替え。

この年に私は忘れられない先生と出会った。
塩出先生。

可もなく不可もないお利口さんに眠る本性を刺激し、それをグイグイ引っ張り出してくれた、新卒でやる気元気1000%の先生の登場だ。

どちらかと言えば、年配のベテラン勢の教員が多い小学校で、若い先生という事だけでも珍しかった。その上、新卒のできたてほやほやの先生なもので、保護者からも注目されていた。

今思えば、もうとにかく子どもたちの事が大好きで、そんでもって、教員という仕事に大きな夢を抱き、晴れて採用試験に合格。一番最初に受け持つのは、まだまだあどけない3年生のクラス。思い入れも半端なかっただろう。

後に、8歳年の離れた妹もこの塩出先生にクラスを受け持っていただく事になるのだが、私の妹と判明したその日から、

「この子は僕が初めてクラスを受け持った時の妹さんなんだ!」

と、とにかく喜び、事あるごとにそのことに触れ、担任を離れても卒業するまで温かく見守ってくれたのだ。
ありがたや、ありがたや。

さて、小学3年生といえば、精神面でも大きく成長する学年でもあり、勉強面でも少しづつ差がではじめ壁にあたる年代。認知的な飛躍が起こるとされるのもこの小学3年生~4年生の中学年の時期。ギャングエイジとも称される学年で、やんちゃが過ぎる児童は新卒先生にはちと荷が重い。ということから、5クラスの中でも比較的無難な平和なメンバーが揃ったクラスだった可能性も高い。

で、とにかく元気で熱血な先生。市原悦子似のきょうこ先生とはまるで真逆。「おはようございます」の朝の挨拶ひとつとっても、やる気元気が1000%なのだ。

取り残されるような児童がいたら、全員でもって応援する、友達同士でいざこざが起こったら、全員で解決方法を考える。共に笑い、共に泣き、共に成長する、漫画に出てきそうな熱血先生に、子どもたちもどんどん感化されていく。紛れもなく、私もその中のひとりだった。

クラスにはとりわけ大人しい女の子がいた。自称大人しい私が大人しいなあと思うぐらい物静かな女の子で、声もか細く、見た目も華奢で、とにかく給食を食べるのに時間がかかる。当時は昭和真っ只中で、給食は最後まで食べるもの、給食の時間が過ぎても、掃除の時間に突入しても、その子は粛々と隅っこで給食を食べ続けた。

そもそも、食が細いのに同じ分量にするからこんな本末転倒なことになるのだが、給食係はいつもどおり均等に取り分ける。みんな同じ、みんな平等、が変哲もない正論だと思っていた。女の子にしたら、さぞかし給食が苦手になった事だろう。

気の毒だ。みんなそう思った。

学級会で食べきられる分だけを配膳することになった。よって少なくとも私たちのクラスでは掃除の時間になっても食べ続ける児童の姿は見られなくなった。他のクラスでは相変わらず見られたかもしれないが、ひとつクラスの問題ごとが消えた。

1クラス45名の時代。45人もいれば、色んな子がいる。足の速い子、絵の上手い子、鉄棒が上手い子、計算が早い子、給食が遅い女の子は字が綺麗でよく褒められていた。苦手なことが多くとも、どんな児童にも必ず得意なことがある。先生はいいとこ探しが上手だった。きっとひとりひとりの事をよく観察していたのだろう。私は姿勢が良いとよく褒められたことを覚えている。

ついつい盛り上がってしまって、時に他のクラスから「塩出先生のクラスだけずるいわ」などとブーイングされ、少々後ろめたい行事もあったけれど、今となってはそんなことほど記憶に深く、良き思い出になっている。

社会人一年目、きっと塩出先生ご自身も手探りで必死だったのかもしれない。やる気元気1000%で向き合ってくれる先生と過ごすうちに、なんだか恥ずかしがっていたら損だな。そんな気持ちが高まった。

子どもは、褒めてもらえると嬉しい。

子どもは、見てくれていると分かると安心する。


当たり前のことだけど、クラス全員隔てなくとなると、なかなか難しい。でもきっと、先生の気持ちは子どもながらにしっかり伝わって、返したくなったんだろうな。

もっと褒められたい。

もっと見ていて欲しい。


いつの間にか、恥ずかしがって控えめでいることより、自分の気持ちをはっきり伝える方が楽しくなったし、困った人がいれば、こんな時どんな風にすれば良いか、率先して考える側になれた。もちろん、2年かけてゆっくり、ゆっくり今の私の基礎みたいなものが形成されていった。

低学年時代の一歩引いて俯瞰的に全体を見る癖と、中学年の人前に出ることの楽しさだったり頼もしさが、上手い具合に融合していった感じなのかな。

何かの代表を決める時、立候補が出てこないあの永遠に続きそうな沈黙とかも苦手。ケースバイケースだけれど、自分でも大丈夫かなという場面では、「どうにかなるか」と思って、率先してあの苦手な空気を断ち切ってきた。回数が増すにつれ、いつのまにやら進行を任される事が苦手でなくなった。

大変だったり、失敗したことの方が、経験値が上がり確実に自分に還元されている。

親たちは新卒のペーペーの先生にハラハラしたかもしれないが、塩出先生に出会えて本当に良かった。感謝しかない。
今も元気にされているといいな。



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