ヌードルス考、デボラ考、そしてマックス考

宝塚版「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」(雪組、2020.01〜03)は、ロバートデニーロ主演の原作映画に大きく変更を加えたミュージカル作品です。主人公ヌードルスがアメリカでユダヤとして差別されながらも身を立てようと必死にもがき、恋をし、仲間を得て、そうして結果的に、全てを失っていく物語です。同じくユダヤの生まれであり、女優として大成し、ユダヤ人初の皇后になることを夢見る少女デボラや、貧しさによって狂死にした父親を持ち、アメリカへの復讐として大成しようとする少年マックスとの青春物語でもあります。いやもうほんとこれはね、すごい、人生そのものをトンカチで叩いて美しい音を鳴らすような演目ですよ。この三人のことをどうしても、どうしても書きたいので書きます。堂々とネタバレ(具体的なことは書いてないですが)してしまっていますが、よかったら読んでください。(すみません、長いです。あと今回ばかりは未鑑賞だとわからないところが多いかもしれない。)

ヌードルスとデボラの恋はその幼少期から始まります。社会によって苦しい立場をしいられ、それでいて誇りを見失わない二人。同じものを見ているはずが、すれ違っていく二人は、一方でどうやっても結ばれることはなかったのではないか、とも思えてならない。二人には夢があった、ヌードルスが皇帝に、そしてデボラが皇后になる夢。それが、叶えばよかったのか。ヌードルスがまともな仕事をして、それが成功し、デボラも女優として大成すればよかったのか。私は、そうではないと思う。デボラにとっては「ともに夢を追うこと」「夢見ることを諦めないこと」が愛であり、ヌードルスにとっては愛こそが夢を追う動機だから。夢が叶ってしまったら、デボラは自分の愛そのものの実像を見ることさえできないのではないか。そしてヌードルスは、彼女と夢を語り合うまでは本当の意味では「皇帝」になりたいわけではなかったのだと思う、デボラが皇后になるというから、ならば自分が皇帝になって彼女を迎えるしかないと思ったのではないか。デボラの隣に立ちたいからこそ、彼は、皇帝を目指すことにした。

もちろん、それまでも生まれに対する苛立ち、自らの誇りが世界に踏みつけられていく感覚に憤りはあっただろうし、だからこそ成功者になると願ってもいただろう。でもそれは、ある意味マックスと同じ「野望」であり、自らを差別する世界への復讐としての願いだった。(もしもデボラに出会わなければ、陽の当たらない道を歩むことに彼は疑問を抱かなかっただろう。)タイミングは逆であるけれど、デボラに恋をしたことで、ヌードルスはマックスと道を違えた。彼だってだからこそ、マックスの暴走はよくわかるはずなのだ、彼は愛によって未来を見ることができた。マックスはいつまでも過去を通じてしか未来を見ることができずにいる。

ここで、マックスというキャラクターに触れたい。彼も貧しさと差別と戦い、のし上がってきた人物で、非常に頭が回り、ヌードルスの相棒として活躍する。しかし心はまだ父親がアメリカに踏みつけられるようにして死んだことに囚われ続けていた。彼は成功をしたいが、それは生まれたその時点で貧しさをしいられ、上り詰める道もほとんどが閉ざされたアメリカという社会への反発としての、成功への執着だ。作中における「アメリカ」とは、ラストのヌードルスの歌によって気づかされるが、「人生」そのものとも言える。マックスに、アメリカは「憎んでも憎みきれない」とヌードルスは歌った。人生もそうだ。けれど、マックスはそう思うことができなかった。

彼が愛に気づくことができれば結果は変わったんだろうか。キャロルとデボラという二人の女性を、彼は愛していなかったわけではないと思う。ただ、彼が再会したデボラはすでに夢を見ることをやめた女性であり、ヌードルスに未来を見ることを教えたあの若き「強きデボラ」ではない。夢を見ること、未来を見ることが、愛を失う結果にもつながることを知ったデボラだ。闇雲に未来を見ることの脆さを知った女性である。愛があれば前向きになれるとか救われるとかではない、そういう正しさでは救われないものを抱えているのがマックスだ。

幸せになれれば勝利だ、というのは、正しいが、その正しさが救えないものがあり、マックスはまさしくそうだった。彼は本当の意味でアメリカを破壊したいのではないし(それで何かを得るわけでも取り戻すわけでもないから)、キャロルのことを愛していないわけではない、仲間のことも大切に思っているはずだ、しかしそれでは抑えられないものがある、心の傷とはまさしくそれで、それらが埋められるとか、解決するとか、そんなことなら人間の人生ってなんだよ?過去って何?オセロで消える黒じゃないんだぞ?って話である、不幸も喜びも打ち消しあうことはない、幸福になれば忘れる瞬間もあるだろう。けれど、過去が消えるわけではない。

マックスはキレ者としてのキャラクターであるけれど、彼は非常に人間臭くもあって、私からすると、ヌードルスは心が清すぎるし、デボラは強すぎる。マックスのように復讐にしがみつくのは何も異常なことはなく、自らの怒りや悲しみによって傷つけてしまったものを抱えて泣いてしまうようなこと、大小違いがあれど、身に覚えがある人も多いのではないか。おかしいのは本当は、愛のためにひたすら生きようとするヌードルスと、夢のためにどこまでも突き進むことができたデボラの方だ、などと、言いたくなるのだけど……。マックスはとにかく、出自と時代が彼の人生を決めてしまったと感じる。そしてだからこそ、最後まで彼と友達だったヌードルスは救いだったのだろう。

でもヌードルスがあんなにさ、「友」であり続けたらさ、マックス傷つくのでは?なんかよくわからんけど、もう逆に傷つくのではないか?とか最後の方は思ってしまった。ヌードルスは美しい、全てを失っても彼は生きたのだ、愛が過去になろうとも、生きる限りそれは咲き続けることを証明した。けれど、マックスは?それならマックスの人生とはなんだったのだろう??彼はこれまで復讐として生きて、上り詰めていった、でも結局は失敗し、その時に友達に復讐されたいと望んだ。復讐こそが生きがいだった彼には、それは自然な思いであり、そこで、ヌードルスの友達としての愛情を受け取って、彼はある種、根本的に覆されてしまったのではないかと思う。それは救いとも言える瞬間だけれど、でも、遅すぎたとも言えて。救われたって人生は、取り戻されないですよ。救われた瞬間がとどめであることもあるんですよ。でも彼は、最後にヌードルスに会えてよかったと思っているだろう。それは彼もまた、ヌードルスを友だと思っているからだ。


デボラという女性は本当に強く、自らの心に空いた穴を埋めるために愛を求めることのない人である。彼女は幼少期、移民として差別されることに屈辱を感じながら、それでも、と自らの誇りを捨てず、未来を見続けている。それは、途中からヌードルスも共に未来を見ているという事実によって支えられてもいるだろうけれど、でも、彼女は愛のために夢を見ているわけではない。彼女は彼女自身のために夢を見て、そしてそれを認めてくれる男性としてヌードルスを好きでいた。彼女はどこまでも自立している。ぶっちゃけ作中最強メンタルであるし、そらスターにもなるわなって感じがする。だから、愛を非常にポジティブなものとして胸に抱き続けている。そして愛は失われるものであること、それが失われた時、自らにとても大きな穴が開くことに気づくのがとても遅かった。彼女にとっては長く、愛とは人生の賛歌であり、何も恐れる必要はなかったのだろう。生きることの喜びとして愛がある。生きることの動機として愛があるヌードルスとは真逆だ。

そうなんですよ、ヌードルスとは真逆なのですよ、ヌードルスが弱いわけではないんだけど、ヌードルスはその分、純粋すぎるんだよ、デボラの誘いを勘違いしたからとかではなくてね。彼は、応えてもらえない愛も、拒絶された愛も、一切汚すことなく心に宿していられる、そのために生きていくことができる。これは彼の作中を通してある「かっこよさ」の軸であると思うが……(こんな渋いかっこよさを男役として実現する望海さんはなんなのだろう。もはや世界の七不思議だな)。彼もまた、愛を自らの欠如や傷を補うためのものではない、と捉えている。愛はただ相手のことを思うことで生まれ、それがあるからこそ未来を見ることができる。愛が全力で未来に向かっている。この、愛情がすこしも歪んでいないこと、淀んでいないこと、それでいてその愛情を持つその人が幼さや無知ではなく、覚悟を持つ人として、人生の年輪を持つ人として見えることに、「うっ、これが望海さんか……」という気持ちが溢れます。望海さんの佇まいがこの、純度が高すぎるがあまり、嘘にも見えてしまいそうな愛に、強い説得力を与えている。

この歌詞を見てくれ。

陽が沈み 心が闇に溶ける時
この俺も 愛のない世界に
深く沈んで行く
バラの香りに包まれて
俺の愛が散って行く
その花びらは知っている
愛は枯れないことを
俺の愛は枯れない

(強烈な決定的な失恋の後、この歌をヌードルスはバラを敷き詰めた部屋で一人で歌う。望海風斗ここにありの超名場面)

この、「愛は枯れない」っていう歌詞を一時的な高ぶりとしての確信ではなく、今後を見据えた誓いですらなく、ただ、当然の事実として、彼の精神が奏でる原始的な音として、歌い上げられるっていうのは、え?待って?信じられないことです。人間がそんな愛を持てるの?まじで???という感じ。
そうなんだよな、ヌードルスはきっとずっとデボラを愛し続けるだろう。未来へ期待するのでもなく、過去を後悔するのでもなく。愛とはそもそもそういうものだ、そうだったな……。愛に説得力を持たせる演者。それは当然、最強だ、これぞ、宝塚だと思った。観客に、愛というもののそもそもの強さを思い知らせるなんて。

欲望や妬みから剥がれたところにある、愛そのものを、それだけを抱えて、それでもその存在に説得力を持つことができる。ファンタジーやロマンチックではなく、手触りのある愛を見せることが普通、できるのだろうか。男役という美しい存在がなせる技だと強く感じた。非現実的な世界を、現実世界に表すために、美しくあり続ける、舞台と客席に応え続ける、非現実的な美しさを、実現し続ける男役だからこその、純粋な「愛」だと思う。そしてこの人間から抽出し培養したような愛は、愛そのものの美しさを、強烈に教えてくれるものでもある。

この三人の人間たちは生きることへの動機、愛することの動機があまりにも違っていて、だからこそ惹かれ合い、けれどだからこそ三人がともに幸せになる方法などどこにもなかったのではないか、と思わせてくる。誰もがなにかを失い、苦しむこととなる人生の終盤と、それでも前を見て生きるヌードルスの美しさというのは必然でもあったと感じるんだ。でも、彼らの失う日々を、失ってばかりの人生を、無駄とは言えない、この三人によって紡がれた彼らの青春は、この三人だからこそ美しく、熱く、忘れることができないものだ。

人生は幸せでないと無意味なのだろうか?幸せを望むとして、その幸せはどこにあるのか、愛はいつ結論をもたらすのか。死んだ時に幸せならその人生は幸せなのか?愛は結ばれれば、成功なのか?ヌードルスとデボラの間に恋が生まれたあの最初の瞬間こそが、もしかすれば彼らの人生のエンディングであり、彼らの人生の「結論」であるのかもしれない。胸にあるバラの花はいつまでも咲き続ける。過去の中で。それは、決して不幸なことでも悲しみでもなく、ヌードルスの人生のある美しい「結果」であるように感じる。彼は、デボラという人を愛した瞬間、すでに、自らの人生の答えを得てしまっていたのだろう。



宝塚雪組「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」

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