ONCE UPON A TIME IN AMERICA考

(この記事は宝塚雪組による演目『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』についてです。原作は同タイトルの映画ですが、内容はいくつかアレンジがあるため、映画のみをご存知の方には違和感のある記事かもしれません)

悲劇には歌が合う。それは、人は声をあげて泣くことがほとんどできないでいるから。歌声はその人の代わりに泣くことができる、笑うことができる。けれど、静かに涙を流すことさえ耐える、沈黙を選び続ける悲しみもある。宝塚雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』はまさしくそんな作品であるとわたしは思う。

生まれた時から多くの可能性を奪われ当然のように踏みにじられて生きていく。移民であるヌードルス、デボラは、それでも誇りを手放さない子供だった。誇りがあるからこそ、夢を語る、未来を見つめる。人を愛する。子供の純真さとは、曇りのない誇り高さではないかと思う。そしてこの物語は、世界が彼らの誇りを踏み潰していくことで進む。

宝塚でこの作品がミュージカル化されると知って、ここにある悲哀と歌の共存がどのように可能なのだろうとまず思った。けれど宝塚という場だからこそ、望海さんというスターがいたからこそ、なし得たことではないかとも今は思う。静かに、怒りも悲しみも抱き、生き続けるヌードルスから歌が聞こえるならば、それは悲痛を超えた美しさでなければならず、彼のいる世界そのものが、舞台そのものが、悲劇を悲劇としてではなく、美しい夢の場として見せていかねばならない。

痛みや悲しみの先に死があることもあるだろう、けれど彼は生きる、生き続ける。それは決して前向きな選択とは言えない、生きるからこそ、より失うものがあり、より傷つくことがある。けれど、生きることをヌードルスは選び続ける。「それなりの幸せ」を手にして。それは簡単に悲劇と呼べるものではなく、簡単に希望を見出せるものでもないだろう。ヌードルスはそれらを「人生」として受け止めているから。失うことも傷つくことも、人生として、受け止め続けている。だからこそ記憶の中にある誇り高さ、愛おしさ、友情、すべてがまだ胸の中に咲いたまま、存在している。そんな、彼の人生を悲劇と呼ぶべきではない、簡単な言葉で定められるものではないことを、証明し続ける物語だった。

何もかもを失っても、生きることは美しいのか、惨めなのか。それよりも、なによりも、何もかもを失うことこそが生きることだと言いたげなこの世界は、本当に美しいのか。誰もが大切なものを失っていく。その喪失や儚さを美しく描くのでは足りないし、きっとそこに立つヌードルスの本当の美学を損なってしまうだろう。だからこそ、生きることは失うことだと、残酷にも告げる世界そのものを、美しく描く必要がある。宝塚はそれを、可能とする場だった。

宝塚は演出からして、そこに立つ人間が美しくあることを当然のように求め続けている。美しい人が美しい所作を、踊りを歌を見せることを、それ以外にはない、とでも言うように求め続けている。こうした場だからこそ成立する悲しみの歌があり、貫かれる人生があるのではないか。フィナーレで現れるきらびやかな世界が、衣装が、むしろ世界の真実を露わにしたかのように美しい。

美しく散っていく、恋と夢、誇りある人びとと、それだけではない現実。失われたものがある、けれど失われたそれらも、いつまでも「私」の人生の一部として共にある。それは希望とも絶望とも言い切れぬことです。生きるというそのことを、漂白することも諦めることもなく、それそのものを美しい歌と舞台に昇華した宝塚。素晴らしい舞台。ONCE UPON A TIME IN AMERICA。