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思考で感情を封印するクセ

ずいぶん前にトラウマを解消するヒーリングを自分自身がうけて、全般的な自己否定感は減ったのだけど、最近、医師である自分になぜか否定感があるなということに気づいたので、なんでかなっと振り返ってみた。


ふと、思い出したのが、3歳か4歳ぐらいの記憶。
生まれてまもない弟が病気になって、急に入院するため、私は祖父母の家に預けられた。母は弟に付き添って入院しないといけないし、父は仕事があるので、私のめんどうはみれなかったのだろう。私もなんとなく事情を説明され、納得して祖父母の家にいったように思う。

祖父母の家に預けられた私は、泣いたりすることもなく、ひたすら祖父母の家にあったオセロゲームをしていた。無理やり祖父母を対戦相手にして。

たぶん、弟が死んでしまうかもしれない恐怖とか、両親から離れて生活しないといけない寂しさとか悲しさとかいろいろあったと思うのだけど、ゲームでまぎらわせて全部感じないようにしていたのだと思う。

その時から、考えることで辛い感情を抑圧するという行動パターンをし始めたのかもしれない。

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思考を働かせて、辛い感情から逃れるという行動パターンはその後もずっと繰り返されることになった。

親が教育熱心ですごく怖かったこともあって、幼稚園児のときから、工作などの作品の出来栄えを(親に怒られない程度のものにすることを)気にしていたし、なんでも早くやらなといけないと思って、ご飯をはやく食べるために嫌いなものを先に食べるとか工夫したりしていた。小学校に上がってからも、良い成績をとらないといけないと思って勉強を結構していた。

私自身も、親がこわいから勉強をしていただけだと思っていたのだけど、私がひたすら勉強していたのは、それだけが理由ではなかったようだ。

本当のところ一番こわかったのは、自分の中のネガティブな感情。それを感じないようにするために、とりあえずなんでもいいから思考を働かせるために、学校の勉強をしていた。

つまり、勉強することが、自分の嫌な感情からのがれるための回避行動になっていたのだ。
まるで、アルコール依存症の人が嫌な感情から逃れるためにアルコールに逃げ込むように、私は勉強に逃げ込んでいた。

だから、「勉強がよくできるね」とか、「よく勉強するね」と言われるとなんか、居心地悪い感じがする。
だって、アルコール依存の人が、「アルコール沢山飲めてすごいですね」と言われてるのと同じだから。

さらに、「すごく勉強したから医者になれたんですね。なかなかなれないですよ」とか言われると、もっと居心地が悪い。
アルコール依存の人が「アルコール性肝硬変なんて普通なかなか作れないですよ。すごいですね」と言われてるような感じになる。


勉強というそれなりにポジティブな行動でも、肯定的な目的のためではなく、何か嫌なものを回避するためにやってしまうと、ネガティブが蓄積していってしまう。だから、自分の本当の感情を抑圧し、逃れるためにした勉強の、なれのはてになった医者に対してなんかネガティブな感覚があったんだな〜と納得。今まで、勉強という名の隠れ蓑に隠れて、抑圧しまくっていてごめんね〜と自分に謝りたい気分なのです。


とりとめもなく書いてしまったけど、、
<まとめ>
・どんな行動をするかも大事だけど、その深い部分での動機も大事。(逃げではなく、肯定的目的がある方がいい)
・動機がずれていると、後からズレが増大してくる。
・外的要因がきっかけにはなるが、本当の自分を抑圧して生きるというパターンは自分自身で作り出している。(だから、後から自分で変えることも可能なのだ)

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