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『仏蘭西料理と私』~No43 青年編 感覚の記憶~【龍圡軒 四代目店主 岡野利男シェフ】

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この記憶に関するエッセーは、実に面白い視点だと、感心させられています。人間の記憶には、ただ頭で覚えているという論理の記憶だけではなく、人間には、感覚の記憶や感情の記憶というものがあるのです。

アルツハイマーになると、記憶力が衰えてしまって、右から左へ、出来事が頭の中を素通りしてしまうようになる。しかし、そのときにも、嬉しい、楽しい、悲しいといった感情の記憶、痛い、熱い、冷たい、寒い、痒いといった感覚の記憶は残るものなのだと聞きました。

私の母がアルツハイマーになって記憶が衰えていったとき、私の兄弟3人で話し合ったのは、記憶力が衰えるのは仕方がないからどうしようもない。しかし、感情が残るのであれば、悲しい思いや寂しい思いだけはさせないようにしたいね、交代で会いに行こう、ということでした。

嬉しそうな表情、楽しそうな表情を見ると、それだけで“心の会話”ができるような気がします。幸せを感じるって、どういうことなのだろうか、とも思います。 現代社会は、論理の会話にこだわりすぎているのかもしれません。人間は感情の動物だと言われるように、感情に働きかけるコミュニケーションというものの大切さを感じさせられます。(Y.A)

青年編は、フランスに渡って過ごした日々です。この文章を書き始めの頃、お店に勤めていた順に、時系列に沿って書いていました。

ここでは感覚の記憶という面で、お話しします。

まず1番、「ビックリ」。

驚愕という言葉ではないが、日本ではあり得ない光景。それはあまりにも身近に見える銃、本物の銃。男の子にとって小さいときからあこがれ、いや違う遊びの一環として身近にあったおもちゃのピストル。水鉄砲、銀玉鉄砲、テレビで見るローンレンジャーやコンバット、そしてショーン・コネリーの007。そう、この頃からモデルガンなるものが登場し、私も、6丁持っておりました。

それがフランスでは、凱旋門の警備に立つ警備隊員の機関銃、エッフェル塔、オペラ座も、そして見習いに入ったカメリアのレジにピストルが、猟の散弾銃、よく出てくるドミニックがお尻におできが出来、3週間腹ばいの生活をしていたときに買って、気晴らしにカラスを撃っていた22口径のウィンチェスター。もちろん警察の銃も。こんなにも生活のすぐ近くにある銃に、本当に驚きました。

1番最後に勤めていた凱旋門から1分ほどのシベルタに、ある日、機関銃を携えた警官が2人、ガイザーという見習いの子の襟首を掴んで見えました。すぐに分かりました。この子はやんちゃな子で、教えれば食いついてくる根性のあるアルザスの子で、またどこかで喧嘩でもしてきたのだろうと思って聴きますと、「挙動がおかしいので、職務質問しますとこちらの店に勤めているというので、伺ったのですが?」とのこと。

私は良い機会と思い、少しお灸を据えようと「お巡りさん、ここは2つ星の店で大臣や各国の大使もお見えになる店ですよ。こんな子がうちにいる訳ないじゃないですか。連れて行ってくださいよ」と。警官も察したようで、「こら、君。こちらの方もこう言っているじゃないか、ほら、行くぞ」と腕を取ると、カイザーが必死になって私に、「シェフ、お願いしますよ。本当に、本当のことを云って下さい。Toshio、ね、お願い」と回りで見ているボーイにも色々云っていました。

頃合いを見計らって、警察の方に「どうもすいません。確かに、この子はうちの子です。大変、ご迷惑をおかけしました。少しは薬になったと思います。私の方からも話しておきますので、どうもありがとうございます」。そして、ボーイに「アラン、赤ワイン出して」とワインを勧めると、警察の方が「よく分かりました。そしてお気遣いありがとうございます。職務中なので」と云って、帰られました。

そしてカイザーに、「何があったかは知らないけれど、お前は店でも外でも、この店を代表しているのだから、自分の行動もよく考えろ」と。いつもは叩いていたのですが、このときは静かに伝えました。大分、懲りたようです。

それにしても銃が見えるところにある国です。

次は、「きれい」な話です。

きれいと思ったことが2回ありました。それは美しいではないのです。きれいなのです。

その1。ベルサイユ郊外にある調理学校で調理試験を受け、終わって帰るときに見たのではなく、見えた土手一面に咲いていた黄色の菜の花でした。当然、来るときも見えていたのでしょうが、余裕がなかったんですね。緑のなかの黄色のコントラストがきれいで、今でも目に浮かびます。

言い訳しますと、私は都会生まれの都会育ちで、自然が周りになく、それと花に興味がなく、春の桜、タンポポ、お墓の菊、小学校のチューリップ、あとはバラで終わりです。そう、5年生のときに、ヒアシンスを育てましたっけ。家内から、いつもバカにされています。

レストランに生まれ育ったので、花はいつもありました。また、お使いで買いにも行かされていました。カメリアでは、毎週金曜日に花屋でも開くのかと云うぐらいの、ランジストというヨーロッパ一の市場から買ってきた花を飾っていました。入り口のレジの横に大きな花瓶に投げ入れて飾っていました。お客様から賛美の声が調理場まで届くくらいでした。

次にお邪魔したオジエ氏の店では、奥様はお花が大好きで、お花畑が庭師二人で管理し、バラ園もありました。そんな環境なのに、きれいと思ったことがなかったんだと。たぶん、きれいと思える心の余裕がないのが原因だったのでしょう。

「きれい」、その2は、カミナリです。それも目の前一面に降るカミナリでした。

コルシカ島の夜に雷雨で海一面に、その稲光が映りました。こんなきれいな光景は見たことがなく、また二度と見られることはないと思います。

次は、「美しい」です。パリの夕日。そしてそれが見えるところが、旧シャイヨー宮殿があったトロカデロ広場です。私がお客様からパリの見所を聞かれたときに、パリの下水と、このトロカデロ広場から見る日の出か夕日、と云います。広場からの光景と夕日で、相手が自然なので大変難しいのですが、この丘の上の広場からの眺めは、旧シャイヨー宮の庭の緑が広がり、中央にエッヘル塔、その塔の足下の間から、1671年にルイ14世によって建てられた廃兵院(ナポレオンの棺が安置されている)が眺められ、この広さの使い方、そしてそこへ夕日の色が染めていく様、美しいというほかありません。

そして、次の感情は、「穏」です。

私がパリで1番好きな場所でそれは起こりました。オランジュリー美術館のモネの間です。二間続きの楕円の大広間で、白壁に長さ10mはあるような睡蓮の柄が、各広間にたしか6枚ずつありました。そして中央にベンチが一つ。このベンチに座って見ていました。私のことですから、私ひとりで美術館なんか行くわけがないのです。誰かに連れて行ってもらったんだと思います。今では、この誰かに非常に感謝しております。

フランスに渡り、毎日が新しく、右も左も、前も後ろも、何もかも、毎日の変化についていくのが必死だったときに、「あっ、そうだ。あそこがある」と、このベンチに座ってボーッとしている時間。とても素敵な、そして心を休める大事なところでした。

1970年代初頭、ルーブル美術館でさえ夏のシーズン以外は閑散としていた時代です。オランジュリーも私の休みの月曜日には、ときより2~3人が入ってくる程度でした。私は味を占め、好きな本、團伊玖磨さんの『パイプの煙』や石原慎太郎氏の『青年の樹』を持ち込んで、読んでいました。至福の時。

「怒」の記憶。自分に怒っておりました。

ムッシュ・ドラベーヌは、毎年バカンスに私を連れて行ってくれました。初年度は、地中海のラ・バンドゥと云うフランスで1番季候が良いところで、2年目はブロターニュ地方でした。それも広い庭付きの一軒家でした。

ある朝、ドライブに出た川に、なんと体長5~60cmの鯉が腹を見せて浮いているのです。1匹や2匹ではなく、何百という、たぶん千は超していたのでは。鯉だけなのです。最初は誰か毒でも流したのかと疑ったのですが、翌日の新聞に酸欠だと書いてありました。

ムッシュ・ドラベーヌと2時間ぐらい川に入り、水の多い方に運びましたがダメでした。このとき、目の前でこんな悲惨な状態に、何もできない自分自身になんとも言えない虚しさではなく、やり場のない怒りがこみ上げてきました。自然の厳しさに対する怒りでした。これが人為的な出来事だと、そこに怒りの矛先を持って行けるのですが。

日本に帰ってきてからですが、テレビのドキュメント番組で、大阪の救急病院の話を見ました。この番組のなかで何の事故か忘れましたが、30歳代の女性が運ばれてきました。手遅れで手術する前になくなりました。控え室に5歳ぐらいの男の子とお父さんが待っていました。先生が中に入って行くと、お父さんは先生の顔を見て、すぐに察しました。男の子は不安そうな顔で、お父さんの横に座っています。先生は看護婦さんを呼び、あの子を見るように伝えると、お父さんと廊下に出ました。そこでお母さんが処置する前に亡くなったことを説明すると、お父さんはがっくりと首を落としました。

しばらく時が過ぎ、先生が口を開きました。「お父さん。息子さんは分かっているのでしょうか。坊ちゃんは?」。お父さんは首を振って答えました。すると先生が、「お父さん、息子さんは今どうしていいか分からなくて、不安で困っています。いいですか、お父さん。私の所為にしましょう。先生が手術に失敗して、お母さんが死んだと。分かりますか、お父さん」。

お父さんはビックリして先生の顔を見ていました。続いて先生が「今、1番大事なことは息子さんの気持ちです。理屈ではないのです。息子さんの気持ちの整理なのです。ですから、怒りの矛先が見つかれば、そこに感情をぶつけられます。それで心のバランスが取れます」。お父さんは、先生の顔を見て「でも先生」。「お父さん、息子さんも大きくなれば分かってくれます。大丈夫です。いいですか。私の所為ですよ。私の」と云って、立ち去りました。

テレビを観ているときに、画面がよく見えませんでした。涙で。

日本も大丈夫だと、本気で思いました。こんな良い先生がいるなんて。目頭が熱くなり、涙が止まらずに、なかなか先に進めません。そしてこの先生に「怒り」の基は何であれ、大事な感情の一つだということを教わりました。

長くなったので、一度ペンを置きます。


by saiboukenon 2021年1月1日

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