見出し画像

平安神宮の例祭「時代祭」(ル・プチメック コラム)

この記事は2018年11月1日にル・プチメック コラムに寄稿した記事の全文転載です。

10月22日に行われた京都三大祭の一つ「時代祭」に参列した。

秋は京都市内の多くの神社で例祭が行われることが多いのだが、同じ日に開催される「鞍馬の火祭」は、台風21号による被災のため中止となった。僕の住まいの氏神様である「木嶋神社(通称:蚕ノ社) 」も、社殿や拝殿などが被災して、神輿渡御だけでなく新嘗祭も中止すると報告があった。修復にはかなり時間も要するようで、自然(災害)と共存してきた風土が僕らの生活に少なからず影響を与えている。

今年は、明治元年(1868年)より数えて満150年となる。

ちょっと歴史を紐解いてみる。

当時の京都は、明治維新の戦乱で街は荒廃し、天皇家が東京に移られたことで、京都市民が打ちひしがれ、街の衰退は著しい状況であった。

そんな中、日本最初となる小学校の開校、後に大学となるさまざまな教育機関の設立。南禅寺の奥にある琵琶湖疎水では水力発電所が送電を開始し、さまざまな産業拠点の創出や、路面電車の開通など、京都復興を目指して多くの施策が行われていた。

明治28年(1895年)には、内国勧業博覧会を誘致し、平安遷都1100年祭の記念に合わせて「平安神宮」が創建された。

平安神宮は、794年に平安京への遷都を決めた「桓武天皇(かんむてんのう)」と、明治天皇の父にあたる「孝明天皇(こうめいてんのう)」を祭神としており、平安遷都1100年祭の祭典として「時代行列」が行われ、翌年以降「時代祭」として今に続くことになった。

そんな背景からか、平安神宮は京都市民全体と神社としての役割も担っているようで、毎年、平安神宮の御札が市民に配られている。それは、おそらく町内会に入らないと知らないことだと思うし、町内会に入ったとしても、平安神宮の歴史を知る機会がないと分からないことだろう。(各町内会が平安神宮より御札を購入して町内会員へ配っているのだ♪)

僕が初めて町内会に入ったのは待賢学区(上京区)、毎年、平安神宮の御札をいただいており「町内会の謎のひとつ」だと思っていた。地元の氏神様でもなく、京都の東の端にあって、比較的新しい時代に建てられた神社としか思っていなかった「平安神宮」が、近代京都の復興と深く繋がっているなんて、外部から移住してきた者にとっては、まったく知る良しもない。(僕は宇治市からの移住者)

画像1

時代祭に話を戻して、、

総勢2,000名にもおよぶ時代行列は、8つの時代(明治維新、江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦)を京都市内の各行政区が担当し、江戸時代婦人列、中世婦人列、平安時代婦人列を5つの花街が輪番で担当されている。

平安講社(祭事を執り行う組織)は全体で11社あって右京区は第9社「楠木正成公の上洛列(楠公上洛列)」を担当しており、今年は僕が住んでいる太秦学区が輪番で担当となった。(次回は20年後とか…という話なのでとても貴重な巡り合わせである)

楠木正成(くすのきまさしげ)は鎌倉幕府を倒幕した後醍醐天皇に仕えた武将の一人、鎌倉時代の終焉から室町幕府までの南北朝時代(吉野時代とは南朝を指す)、天皇家が二分される乱世に生きた武将である。その最期は神戸の湊川にて足利尊氏に敗れて自害したとされる。(ちょっと調べる機会があった

楠木正成の上洛列は、鎌倉幕府倒幕の首謀者である後醍醐天皇が、隠岐島に流罪された後、京に戻ってくる際に、楠木正成や弟である楠木正季(くすのきまさすえ)ら一族を率いて兵庫まで迎えに上がった様子を再現したものとなっている。鎌倉幕府の倒幕と江戸幕府の倒幕は共に天皇家の擁立もあって比べられることが多く、時代祭に選ばれた経緯が見え隠れしているようである。

さて、今回の「楠木正成」役を太秦の元・消防分団団長が担当されたご縁で、同消防団に所属している僕にも参列の声を掛けていただいた。さらに参列者だけでなくスタッフのみなさんにもお配りする記念品「手ぬぐい」の意匠をお手伝いした。(冒頭写真がその手ぬぐいです。感謝!)

この記事は2018年11月1日にル・プチメック コラムに寄稿した記事の全文転載です。

そして、この記事の編集後記はこちら。

#編集後記 #言い訳 #コラム #時代祭 #楠木正成 #京都 #歴史 #平安神宮 #社会 #システム

僕のnoteは自分自身の備忘録としての側面が強いですが、もしも誰かの役にたって、そのアクションの一つとしてサポートがあるなら、ただただ感謝です。