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宗教共同体としてのべてるの家について


(7月3日現在、当該問題についてのべてぶくろからの最終的な応答は、まだ準備段階という扱いらしい。本来は告知を待つべきだろうが、何か出てくるとしても、まぁ多分本論の内容とは直接余り関係なかろうと踏み、先に公表する事にした。)


【序】

今から一ヶ月ほど前、べてるの家の派生団体、べてぶくろにおいて生じた問題の被害者による告発記事が2つnoteにあがった。片や性、片や労働における問題である。



これを機に、べてるの家について考えていたことを少しまとめてみた。私がかねてより考えていたべてるの面白さ、及びべてるに感じていた懸念と、今回の件は関係があるのではないか、と思う。少々回りくどく思われる事だろうが、ご興味のある方はお付き合い願いたい。

なお、本稿での私の問題意識は、以前私が福音ルーテル東京教会の関野和寛牧師にインタヴューした頃にも抱えていたもので、その時ある程度表明もしている。最後にリンクを貼ったので、興の乗ったかたはそちらもご確認頂ければ幸いである。

最初に断っておくが、本稿はべてるの家や当事者研究自体のあり方のみならず、それに興味を持つ多くの人達の関わり方にも批判的な内容を含むゆえ、恐らくあなたにとっても、余り愉快ではない所や冷水を浴びせる様な所があると思う。その多くの人の中には、恐らくはこの国の窮屈さや狭量さに批判的でオルタナティブな価値に期待を寄せているゆえに、当事者研究やべてる関連の文章として本稿に目を留めた貴方自身も含まれる可能性が高いのだ。なので本稿が余り読者を得るとは思えないが、「愛と真理は双子であり、大抵の場合、この双子は不快である」という『宗教とは何か』におけるテリー・イーグルトンの言葉を掲げて、先に進んで行こう。

1【べてるの基礎としての宗教性】


べてるの家について、多くの人は圧倒的に当事者研究発祥の場としての興味を抱くようだが、私は実は当事者研究なるものに然程の関心を抱いておらずーーというより寧ろ、古色蒼然たるこんなロマンティシズムをちやほやする精神医療界隈の思想的成熟は随分貧しいものじゃないかなぁ、という懐疑的な気持ちすら抱えいているーー、キリスト教共同体のモデルケースとしての関心を有し続けてきた。大々的に喧伝されないせいなのか意外と知らない人も居るようなのだが、向谷地生良さんは『精神障害と教会』という著作もあるクリスチャンであり、べてるの家のTwitterアカウントもしばしば教会活動参加報告を呟いたりしている。




べてるの家の、世俗の価値に抗うオルタナティヴな価値の標榜に期待を寄せる多くの人が、この日本社会におけるもっともわかりやすいオルタナティヴ集団であるキリスト教に殆ど注目せず、当事者研究なる私に言わせれば当たり障りのないある種の主観主義にばかり注目するのは、どうした事だろう?当人たちの自己理解を他所に、芸術表現とも通底する主観主義的傾向は、実際は我々日本人にとってキリスト教と比べれば歴史的文化的にさほどの異物ではない。意地悪な見方をすれば、彼らは「真の」オルタナティブに身を投じる危険を回避して、慣れ親しんだ着地点に落ち着きながらオルタナティブのおままごとだけをしたがっている欺瞞的な臆病者ども、のみならず、それを無自覚にしている間抜けどもではないか、という蔑みの気持ちすら、私はしばしば覚えそうになっていた。


名前からも建物の屋根についた十字架からも相当に明け透けであるにも関わらず、べてるとキリスト教との関係は不自然としか言いようがないほど軽視されて来たと思う。いや、ある意味では非常に自然かもしれない。ちょうど、インドの現代社会生活の中でたまたま不可触賤民出身者と同じ空間に居合わせる事になったバラモン階級出身のインド人が相手の存在を一切無視する様な、土着習俗に培われた極々自然な所作で、我々日本人はキリスト教から視線を外す。そうした自然さにどっぷり浸かったまま唱えられるマイノリティ運動だの差別反対運動だのが、どれだけ信用に値するというのだろう?

ーーとまぁ、私は私で相当に偏りある物事の見方をしている訳であるが、逆サイドの偏りばかりが有り触れている現状では、そちらと合わせて公平な見方に寄与するところもそれなりにあろうかと思い、意見を述べる事にした。

今回の不祥事に触れて、みわよしこさんは、べてるの家を元々ヴォランタリーアソシエーションに近いものとして想定しており、今回告発のあった不祥事を、それが部外者にも通用する万人普遍の基準を課されざるを得ない規模と影響力を持つ公的団体に成長していくさなかの過渡的問題と捉えている様だ。

両団体が小ぢんまりと私的な領域にとどまっていた時代は、はるか昔です。もはや公共の一部であったり、「もう一つの公共」というべき位置づけにあったりします。そうなると、私的で出入り自由の仲間の集まりだった時期には許されていたことが、許されなくなります。

だが、これは違うとわたしは思う。シューレはどうあれ、べてるはそもそもキリスト教会をベースにしており、一神教の会衆というものは、神という天地万物一切の究極の由来を共有するある種の家族なのだ。それは、我々自身が、我々の親を選んで生まれて来るのではない様に、また我々自身が自己の選択で兄弟や姉妹を得るのではない様に、与件として与えられる結びつきなのである。少なくとも当人たちはそうであることを信じている。故に好きな者同士が集まり嫌いになった出ていく、または志を共有する限りで団結し、方向性が異なれば離反する、趣味のサークルや政党の様な、同好会や同志社集団とは結びつきの方向性が違う。教会員達は、いまここの感受性や将来の目的以前に、各々の存在の成立事由たる由来を共有している。この様な結びつきは、宗教以外では家族のみが持つものだ。家族は良かれ悪しかれ、自由な離入脱がそうそう簡単に可能なものではなく、故に毒親問題などは見舞われれば当事者は相当厄介な苛まれ方をする訳だ。宗教の結びつきもまたそうしたものであり、この特徴は、普遍的な基準を掲げる公共制度か、特殊性の許されるヴォランタリー・アソシエーションか、という区別の仕方では見えづらくなってしまう。


寧ろこの様に↓みわさんとは逆に考えた方が実質に即していると思われる。

ヒュームに批判されたような社会契約的な国家論の視点を取るなら、寧ろ「公共」も自由な意志に基づいて樹立された一種のヴォランタリーアソシエーションであるという見方もできる。コミュニタリアニズム(共同体主義)とは、一般に、そうではない、究極的には構成員の自発性や恣意的な選好に基づかない、或いはそれら以前からあるものが齎す結びつきを重視する立場であり、この立場の代表的論客、アラスデア・マッキンタイアや日本でも有名なマイケルサンデルの師チャールズ・テイラーらは実際に宗教的背景を隠そうともせず、世俗的な政治哲学の領域だけでなく神学界でも、スタンリー・ハワーワス、ジョン・ミルバンク、N・T・ライトらコミュニタリアニズムの思想家達が活躍して久しい(※)。

(※)彼らは軒並み、カトリック、アングロ・カトリック、聖公会高教会の様な古式ゆかしい伝統教派に属し、ハワーワスは一応メソジストだが、アメリカのプロテスタント史を全否定し真の宗教改革の源泉はカトリックの修道会だ、と公言して憚らず、概ねみな、新教より旧教贔屓である。後述するように、コミュニタリアンとして見た場合、プロテスタントでしかもパウル・ティリッヒの様なリベラルな神学者の影響が強い向谷地さんは、かなりイレギュラーな存在に見える。


2【キリスト教における、性と労働の独特の地位】


精神疾患者の集団としてのべてるの家の注目すべき画期的、先駆的な特徴は、当事者の心の内側の問題だけでなく、実生活上の問題にまで果断に介入する、向谷地生良さんの言うところの「公私混同」ぶりにあり、べてるの企業経営を扱ったルポルタージュの中で、ある著者は「彼が臨床心理士ではなくソーシャルワーカーだからこうなったのだろう」という感慨を述べていた。


実生活上の問題でも目を惹くのが、恋愛、結婚のような性生活と、地元名産のこんぶ販売の企業経営で有名な労働生活だ。



今日日、精神医療分野で「ケアとしての労働」などと言われある程度必要性の認識が共有されている労働生活はまだしも、性生活に関しては、日本の精神医療会は患者への世話焼きに及び腰ではないだろうか?(※)

なぜこの2領域に大いに関心を有するのか?わたしはそこにキリスト教の基本的な世界観、人間観のヴィジョンの影響を見いださずにいられない。人間がある種のエッセンスを奪われずに有していたノルタルジックな原風景を思い描き、無秩序や間違った秩序形成によりそのエッセンスが失われてしまった事態を危ぶみ、エッセンスの回復や再獲得の為に今度は正しい方向に歩み直そう、という理路の展開は、キリスト教に限らず西洋思想に珍しいものではない。その有名な例が社会契約論であるが、代表的な思想家の内ホッブズであればまず生命を持っていて(要するに人間はまず生きていて)、殺し合いが始まり生命を損ないあう事態が生じ、それは誰もが困るので刀狩りをして安全な世界を築き上げよう、ということになる。リバタリアンの父たるロックにおける人間は「生きている」のみならず「持っている」所有者であり、持ち物を奪う泥棒の予防や処罰ができる制度を打ち立てよう、という話になる。エガリタリアンなるルソーの場合は、オラウータンの様にのびのびと気ままに暮らしていた筈の人間(自然人)がスーツ(ルソーの時代の男性正装を何というのか知らないが。要するに窮屈なお仕着せの意味だ)を着る様になって格差がはびこり心が荒み人々の間に不和が生じたので最初からやり直そうという話になる。因みに、私見では精神医療や教育分野ではルソー的な発想は今日でもしぶとく、当事者研究なるものはこの発想の型に収まりが良いが故に好まれているのではないか、と私は邪推する。



そのような、原風景→原風景からの離反→原風景の回復の思考形式を最初に与えたのは恐らくキリスト教であり、そこに満たされていた聖書における最初の内容物、即ちホッブズにおける生命、ロックにおける財産、ルソーにおけるインディファレント(無頓着、無差異としての無差別平等)な囚われなき自由に相当するものこそ、まさに健やかなる結婚と労働なのだ。この2つは神により基本的に良いものとして造られ(※※)、人間の堕罪によりその性質が歪んでしまった(※※※)旨が、創世記では描かれている。思うに、この、労働と結婚をノスタルジックな楽園の原風景の内容物として思い描く事は、日本人のイマジネーションの中では「排除」されがちな、死角的な発想ではないだろうか?楽園と聞けば、我々は労働免除された桃源郷的無為徒食や、性的にはヒッピー的な乱交社会、紅楼夢的な遊惰なハーレム、或いは全く逆に性の目覚めを得る前の幼児の天使的無垢、男女性規範に人が縛られる以前のLGBT理想郷などを思い描きやすい(※※※※)もので、至福に満たされた無垢なる労働及びべテロセクシャル一対婚、というのは中々思い描き難い。

世界中で若い人たちから話を聞く中で、私は彼ら彼女らの多くが結婚について秘跡的な言葉で説明するのを聞いた。最初に紹介したレイチェルのように、結婚を契約のように話す人もいた。ほかにも、結婚を「家庭としての教会」、「子作り共同体」、または「神の祝福を受けて一つとなること」と表現する人もいた。
アウグスティヌスがその答えを聞いたら、さぞかし喜ぶことだろう。著書『結婚の善』の中で彼は結婚を、「人間社会の始まりとなる自然な絆(きずな)」と語っている。
今後、結婚は、「一部のエリート」が「自発的」に「消費者的発想」の中で「人生の後半」に行うものへと急激に変化するだろう。社会的強者は結婚を通して富と収入を統合し、社会的弱者は互いに助け合うこともなくなる。そのような中で「結婚と社会正義」の関係性について考える者はどれくらいいるだろうか。いや、ほとんどいないだろう。

(※)例えば、「ケアとしての労働」の標榜者の一人でもあり、ひきこもり研究で有名な斎藤環医師は、日本の顕著なセックスレス傾向について質問する欧米の記者に応答する中で「なぜ日本にはカップル文化が根付かないのか?」という疑義を覚え答えに詰まったと著作の中で打ち明けている。私に言わせれば、キリスト教の影響の有無はこういう所に現れる。しばしば左翼的な色眼鏡で評されるゆえ、キリスト教も儒教的な家父長主義の宗教と思われているかも知れないが、寧ろカップル(夫婦)文化の基礎となる宗教と見るほうがずっと事実に即している。因みに、『現代思想』のキルケゴール特集によれば、斎藤が依拠するジャック・ラカンは、キルケゴールや十字架の聖ヨハネの様なキリスト教神秘主義者の男性を、「去勢」なる概念(何という事はない。即自→対自、実体或いは直接性→反省、自然人→社会人という近代思想上の移行概念が装いを新たにしただけである)を中心に組み立てられている彼の男性セクシュアリティ観を逸脱する存在と見なしていたらしい。先鋭性や卓越故に歴史に名を残す偉人達も、タイプ的には一般構成員と同じ規範を共有している訳であり、ラカンは今日の世界で最も有り触れた、人口24億居る世界宗教の男性平信徒のセクシュアリティを取りこぼす理論体系を構築した、という事にならないだろうか?文化的特殊事情により本邦での受けが良いのはわかるが、そうした性理論を標準視する事は余りに視野狭窄で問題孕みであるように私には思われるのだが…。それはラカンの様な考えを標準視した上で出てくる様々な対抗マイノリティ思想に関しても同じである。


(※※)主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。 主なる神は人に命じて言われた。
園のすべての木から取って食べなさい。 17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
主なる神は言われた。
人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 22そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
24こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(旧約聖書、新共同訳)


(※※※)16神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。

17神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
18お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
19お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」(旧約聖書、新共同訳)

(※※※※)この様なヴィジョンを抱く者たちはほぼ一律、「家父長主義」による「抑圧」とやらを、原風景に魔手を伸ばし破壊した諸悪の根源の如く敵視する。男性による女性支配を堕罪後の異常事態として認めるキリスト教の発想も似ている所はある。だが、それ自体が諸悪の根源と言うより、骨折した後に腕に嵌める鬱陶しいギプスにも似た諸悪の根源への対処視している点、また男性による女性支配以前から男女の一対婚規範はあった、と考える点が異なる。どちらの思想も、実証科学的な精査と対峙すべきであろう。

その、一般に思い描き難いヴィジョンに基づき、原風景の回復をかなりの程度成功させてきた事。それはべてるの家の大いに注目すべき、賛嘆すべき特徴であると思われる。私が大いに感心し憧れの目で見てきたのも、この点であった。だからこそ、セクハラと未払い労働(※※※※※)という、まさに性と労働分野での不祥事が告発された事は、私にとって大変なショックであったーーかというと、実はそうでもない。私はべてるには大いに感心させられ、敬意と憧れを掻き立てられて来たのみならず「あれ?いいのかなこれで?」と釈然とせずに来た面もあり、その点でのかねてよりの懸念に、今回の件は比較的収まりが良いのだ。

(※※※※※)告発記事の一つによれば、向谷地氏は未払い労働について、労働ではなく活動、という異なる概念で応じ問題を軽視したらしい。実際に概念が一致する訳ではないいものの、アーレント的な活動/仕事/労働の営為の整理に託して、「顔に汗を流してパンを得る」以前の、中々に思い描きづらい非堕落の純粋な労働を意味しようとしていたのではなかろうか。


3【罪人と病人、悪と不幸、啓示神学と自然神学の違い】


原風景→離反→回復の物語という形式の型を、社会契約論と聖書は共有している、と私は指摘した。だが、違う所もある。リベラルな近代思想の一種たる社会契約論と違い、キリスト教では離反した原風景を回復させる再スタートを切る事は、人間の力では一切不可能であり、一方的な神の恵みに基づかなければならない、という事になっている。元々自分たちが持っていた良さ(原義)であるから自分たちの力で取り戻せる、とは考えずに元々持っていた良さを損なう要素を人間は不可逆的に己の内に抱えこんでしまい、その要素の払拭は自力では不可能であり神の恵みが必要だ、と考える。その要素こそ「原罪」である。

原罪は、概念の名称自体からも、人類第2世代におけるその最初の発露がカインによるアベル殺しに現れる事からもわかるように、道義的含みのある概念である。原罪を抱えた人間とは、要するに悪人なのだ。だが、べてるの家やべてる的な思想ミームたるいわゆる「べてるウィルス」の中で、キリスト教のこの基本的人間観は余り強調されていないように思われる(※)。べてる関係の著作を読むまでもなく、べてるは病人の共同体であり、病人とは本質的には他者に危害や損失を与える悪人である以前に、何よりもまず自己の心身に不調を齎す生理的理由や社会的理由により、当人が不利益を被る不幸な人達、苦しむ人達、世の狭量な常識の被害にあう人達である。キリスト教共同体には、確かに、世の価値から虐げられ、苦しみ寄り添いあう正しき弱者達の集団、という面がある。だがそれは一面に過ぎず、それ以前に、自分では処理のできない罪を、神からの恵みとして赦して貰い悔い改める必要を要する罪人、悪人達でもある筈なのだ。悔い改める悪人達でもあれば、寄り添いあう弱者達でもある。赦しを必要とし悔い改めるべき加害者でもあれば、守られるべき被害者でもある。この両面が、キリスト教徒の人間像を構成している(※※)。

(※)自身もアルコール依存症を発症してしまった、アルコール依存症の親を持つ子供への、「アル中になっても見捨てない」という向谷地さんの姿勢には、どこか世代的に継承される負の要素としての原罪と、罪深さにも関わらず人間に慈しみの手を差し伸べ守り通す神の愛に似たものがある。だが、アルコール依存症は本質的には当人の不幸の問題であり、カインによるアベル殺しと違い、悪行ではない。


(※※)悪事を犯し悔い改め必要な赦しを受け取る加害者の立場と、しばしば無力ゆえ被害者になりがちな弱者の立場は、普通に考えれば利害が背反し勝ちであり、両方の要素を含む人間観が一筋縄ではいかない厄介な問題を孕む事は想像に難くない。ミロスラフ・ヴォルフの『Exclusion and embrace』はその困難を扱った力作として知られる。だが残念な事に未邦訳であり、その内容は日本語文献ではN・T・ライトの『悪と神の正義』などの引用を通じて僅かに伺い知れるのみである。どうやらヴォルフは「誰も排除しない」当世称賛されがちな「万人救済説」的おおらかな寛容さを、悪の問題の軽視として批判的に見ているようである。




キリスト教では、私達が堕落したにも関わらず元々は善き者(神の似姿)として造られた、という点を強調する思想傾向と、元々善きものとして造られたにせよ、その善さは不可逆的に損なわれているという点を強調する思想傾向が、しばしばせめぎ合う。人間の堕落を強調する向きは、人間の自力救済の全き不可能性と、キリストの贖罪を通じねば得られない救済の必要性を強調する。この立場を「啓示神学」という。片や、人間が元々持っていた義を強調する向きは、キリスト教以外の異教や、宗教以外の学問や芸術の中にも、ある程度は神に由来する善さを見出し、そこまで強烈に「キリストの外に救いなし」を言わない。この系統の物事の捉え方を「自然神学」と言う。


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4【向谷地生良さんに影響を与えたフランクルとティリッヒの思想の一面性】



向谷地氏の著作を紐解くと、彼の思想にはヴィクトール・フランクル(や、エリ・ヴィーゼル)と、神学者パウル・ティリッヒの影響が大きいという。強制収容所からの生還ユダヤ人という経歴からもその立場が伺い知れるフランクルらよりも、ティリッヒの方がより説明を要するだろう。ティリッヒは、歴史に名を刻む当時の大物神学者の中で最も自然神学的傾向が強いとされる人なのだ(※)。


(※)ティリッヒの、キリストの外にも理解を示す癒しに満ちたおおらかな思想傾向や、酒色に耽るだらしない私生活ぶりなど、今回の騒動との通底を思わせる特徴に関しては、以下を参照

彼は女性に対して異常な執着と偏愛を抱いており、およそ神に仕えているはずの「牧師」のイメージとはかけ離れた趣味や異性関係を持っていた。
彼は妻がおりながら、大学の秘書と長年にわたって男女の関係にあったようだし、サド・マゾ的な趣味を満たすための店にも通っていた。
また、ポルノ小説の収集とその朗読会という、およそ彼の著作からは考えにくいようなことも若いころからずっと続けていた。


コミュニタリアンと目して差し支えない程に共同体の意義を強調する向谷地さんが、ティリッヒへの傾倒を公言して憚らぬ事に、私はかねてより不思議な気持ちを抱いてきた。たとえば、米国を代表するキリスト教共同体主義者のスタンリー・ハワーワスは、ティリッヒをラインホールド・ニーバーと並べてやり玉に挙げ、共同体を損なうキリスト教の皮を被った世俗的な修正リベラリスト程度に扱い、猛烈に批判している。その彼が私淑するのが、神学的には保守的な立場で知られるヨハネ・パウロ2世とティリッヒのライバルだったカール・バルトなのだ。ティリッヒが自然神学サイドの雄ならば、バルトは自然神学を一切認めない程強烈な啓示神学サイドの雄である(※)。思想史上の大物達というものは得てして皆そういう所があるのだろうが、両者ともに先鋭的で極端であり、恐らく多くの神学者や聖職者は伝統教義の中に両方の言い分の収まりどころを認めて穏健な折衷に落ち着くのだろう。だが、向谷地さんの思想には、バルト的な啓示神学的要素が、人間を罪人と見る人間観が、贖罪者たる「キリストの外に救いなし」という排他性が、殆ど認められない様にわたしには感じられる。

(※)ライバル同士とはいえ、当時の神学者の中で保守的なバルトと革新的なティリッヒではバルトのほうが大物視される事が多いようだ。だがバルトの弟子のユルゲン・モルトマンにおいては、キリストの十字架は、罪人の身代わりに義人が被る罰という贖罪論的理解よりも、苦しむ者との連帯という苦悩に注目した理解が勝ってくるらしく、悪より不幸や苦悩を重視する傾向は戦後民主主義時代のキリスト教の全世界的な潮流だったのかも知れない。なお、神学者の大木英夫はモルトマンの十字架理解に疑義を呈している。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11037490

イエスの苦難 (神義論的未決)に対して同情して泣くことができるか。むし ろ人間は自分の罪のために泣かねばならないのではないか。


人間を、不幸な人として見る事に長けている一方で、人間を邪悪な存在として見る見方に慣れ親しんでおらず、邪悪な存在を当事者とする問題対処の仕方を練り上げて来なかった事のツケが今回回ってきたのではなかろうか。私は多くの人と違い、今回の件を、弱者や被害者に寄り添い、彼らに自らの人生の主人公の地位を回復させる方法だった筈の当事者研究の初志(※)の喪失や悪用というよりも、寧ろそもそも主人公の地位に想定されているのが基本的に弱者や苦しむ人達であり、加害者として、悪人としてのその地位への登壇を余り想定してこなかった、元々の方法の限界が露呈したのではないか、と思っているのだ。


(※)論敵の宗教思想家ヨハン・ゲオルク・ハーマンに批判された偉大な人道主義哲学者エマニュエル・カントの「自らの責任であるselbstverschuldet」(この件は、私が知る限り近代思想史上最も早い自己責任論とその批判なのだが、奇妙なことに、今日、自己責任論が批判的に扱われる文脈でこの様な歴史に注意が払われている例は見ない)であれ、マルクス主義の「総括」であれ、トップダウンに抗うボトムアップの思想、権威に抗い下々の者に主体性や自己創造性を認め奮い立たせる筈の思想が、不相応な事態における立場の弱い者たちに課される自己責任論の片棒を担いでしまう事は、残念ながら歴史的には珍しいものではない筈だ。同時代的な実例を知りたければ、チュチェ(主体)思想を国是として掲げる我らが親愛なる隣国がどの様な有様か、調べるまでも無いのではなかろうか?


誰も排除しない、という理念は「キリストの外に救いなし」を強調しない自然神学から出て来やすいものだ。だが、悪事を不幸とは異なる他ならぬ悪事として認めて然るべき処置がされる事の無いまま、加害者が加害者として認められないまま排除されずに共同体に包摂されるのであれば、居づらくなるのは被害者ではないか。いじめっ子を悪いとみなさず、いじめっこもいじめられっ子もどちらも不幸な人間として排除しないクラスでは、不登校に陥ってしまうのはいじめられっ子の方ではないか。一見弱者に寄り添う様に思える標榜が、逆に弱者を追い詰める様な結果に繋がってはいないだろうか。

5【とりあえずのまとめ】


私はべてるの家の、当事者研究ではなく、結婚と労働の共同体としてのあり方に強い憧れを有してきた。だがそのあり方は聖書のヴィジョンに由来し、キリストという排他的信仰対象を通ることなくしての、ヴィジョンに基づく世界回復の試みは、困難なだけでなく危険でもある。ゆえにべてるが、結婚と労働の共同体としてのあり方を、「べてるウィルス」の中に収めて対外的に拡張していこうとするなら、抽出された曖昧模糊たる宗教的雰囲気のみならず、紛うことなきキリスト教そのものをセットにする必要がある。「キリスト教抜きではやっていけない」。そう聞けば、恐らくあなたは何となく面白くないのではなかろうか。「既成宗教、特にはキリスト教はちょっとなぁ…」と。しかしその反発の出どころがどこなのかは、自己省察する必要があると思う。それは神をも蔑する気骨あるマイノリティ精神なのか。貴方が曽祖父まで遡っても幼児洗礼を代々受けてきた様なイタリアの片田舎の住人なら、まぁ、そうかもしれない。だが、本邦では、歴史的地域的土着習俗に培われ殆ど生理的感覚にこびり着いた、マイノリティ宗教への差別的感覚である方が、ずっとありそうな事だ。先進国中類を見ないほど圧倒的な異教的風土たる日本社会に対して、キリスト教を前面に出す売り込みなど、せずに済ませられるならそれに越した事はなかろう。だが、受け入れやすさの為に正体を伏せる様な真似がいつまでも続くわけがなく、どこかで無理が出る。宗教性とは、そう都合よく、受け入れやすい面だけを人間の都合で好き勝手利用できる様なものではない(※)のだ。もし、キリスト教を込みにしないなら、維持の難しい結婚と労働の共同体も取り下げざるを得ず、結果、「当事者研究」というロマン主義の出涸らし(※※)だけが残る。そちらの方がこの日本社会では通用しやすい解決策だろう。だが、そうして残ったものが、どれだけ「オルタナティヴ」の名に値するか、私には疑問である。


(※)キリスト教との関係が明瞭なべてるの家はまだしも、そこから波及していった当事者研究の代表的な担い手達の言葉の中にしばしば現れる、薄ぼんやりした疑似宗教的思想が、なんとなく胸を打つ叡智の言葉の様に通用し受け入れられている有様は、正直私には薄気味悪くもだらしなくも感じられるのだが…。


(※※)本稿では、べてるの家の、性愛と労働に介入する共同体としてのあり方のヴィジョンを提供するキリスト教の自然神学と、まさにその2つの領域に罅を入れる要素の混入及びその要素の扱いの拙劣ぶりの理由としての、本来あってしかるべき啓示神学の不在については考察できた。だが、自然神学及び啓示神学と多くの人にとってべてる最大の目玉であるだろう当事者研究の関係は、殆ど考察できなかった。もしかしたらそれは、キリスト論的にと言うより、聖霊論的に語られるべき問題なのかも知れない…。だがそれについて扱うのはいまのところ私の手に余る。


【おまけ(私の関野和寛牧師へのインタヴュー記事から抜粋)】


かつて私は、関野和寛氏にインタヴューした際、この様に疑義を呈した事があった。

医療介護福祉分野に浸透するキリスト教関係の書物を紐解きますと、傷や苦しみや弱さや孤独といった事柄への掘り下げが深く、正にその様な状態の中に置かれ勝ちな病者や障害者の支えとして頼もしさを覚えます。
一方で、キリスト教の人間観の中心には、罪という道義的含みのある概念があります。ですが病人や障害者が当事者の世界では(例えば囚人(※)が当事者である場合と違って)さほど腑に落ちないせいなのか、そこまで印象深く語られている様にどうも感じません。

(※)先のブログで触れられている通り、教会を拠点としなかったティリッヒは、大学人向けの神学者などと揶揄される。他方、カール・バルトも晩年は教会で説教をしなくなり、代わりに選んだのは刑務所だったという。両者の思想の特質の反映のようで興味深い。内容の抜粋がネットで読める↓


この取材中の、人を傷つける人の出入りに関しての関野氏の答えも添えておく。

生まれからすごく傷ついていて、複雑な家庭環境だったり社会状況の中で苦しんで来た人っていうのはいっぱい居て、教会の中で暴れてしまう人がいる、暴れちゃう事件っていうのは何度も何度もあったんですよ。そしてそういう場合は、出ていってもらうことにしているんですよ。誰が来ても良いけど、誰も他者やグループをかき乱す事は許されない、というところで。
そこに、いつもね、なんかすごく矛盾を感じていて。ホントは誰が来ても良いし、生き辛さ感じた人の為のキリストだと思っているんですけれども、一番傷ついている人と過ごすっていうのは、やっぱり覚悟が必要ですよね。そういう人々を招き一緒に過ごさなきゃいけない、過ごしたいと思いつつ、しかし現実にはなかなか出来ないという状況の中で、ステファンミニストリーっていうアメリカのメソッドを取り入れました。

ご興味ある方は以下↓をお読みいただきたい。


インタビューの枕に話題に出したジャン・バニエについても、ラルシュ共同体における性的虐待疑惑が持ち上がり、残念なことに調査の結果事実と確認できた様である。ラルシュ共同体による声明も併せてリンクを貼っておくので、べてぶくろの件と比較されたい。↓


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