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私が長年勤めた会社生活にピリオドを打ったのは2000年のことです。62才でした。以来10年間、好きな山登りや渓流釣りを楽しむかたわら、日本山岳会や日本自然保護協会を足場に山岳環境問題に取り組む日々を送っていました。

そんな私の人生を大きく変えたのが東日本大震災でした。あの大地震と巨大津波、それに誘発されて起きた東京電力福島第一原子力発電所の大惨事は世界中の人々を震撼させました。いてもたってもいられず、山仲間から手持ちのテントやザイル、衣類などをかき集めて被災地に送ったりしながら、何か自分たちでできることはないかと考え続けました。そして、辿り着いた結論が“地域で再生可能エネルギーを作る”ということでした。想いを共有する地域の仲間と一緒に再生可能エネルギーを普及させるため国が作った電力固定価格買取制度(FIT)を利用して学校や公共施設の屋根を借り売電事業をおこなう多摩電力合同会社を設立したのが2012年10月のことです。さいわいなことに起業して間もなく息子勇一郎(現たまエンパワー、さがみこファーム両社長)が前職をなげうって私たちの仲間に合流してくれました。

同じ時期、雨後の筍のように次々と全国各地でも市民電力と呼ばれる団体が誕生していきました。その数1,000を超えると言われていますが、これらの大半は私と同じ熟年世代が中心でした。
私は、この事業を始めるにあたり、やるからには中途半端なことはしたくない、本気の事業としてとりくみたい、そのためにはどうしても若者の力が必要だと考えていました。
しっかりした事業計画を立て、継続的に維持発展させる体制を作る、その中心に若者がいなければならないと思いました。

同世代の仲間たちの多くは、まずは自分たちで事業基盤をつくり、そのあとで後継ぎの若者を呼べばいいと考えていましたが、私はそうは思いませんでした。飛行機は離陸するとき一番エネルギーが必要です。それと同じで、事業も立ち上げ時に最大のパワーが必要です。あとから若者に引き継ぐのではなく最初から若者と一緒にやらないとできるものもできないと考えたのです。

年金族と言われる熟年世代と若者との基本的違いは、自ら稼いで食べていかなければならない現実の有無です。一時のボランティア作業なら別ですが、想いを共有できても収入が伴わない限り継続的に仕事はてきません。鶏が先か卵が先かの議論にもなりますが、最低限の収入保障の算段は必須でしょう。だだ、お金が天から降ってくるわけでない以上、若者にも自らの努力で稼ぎを生みだす気概が要求されるのは当然だと思います。

あれから10年近くたった今、私たちはここ相模原でソーラーシェアリングを核とした新しい農業に取り組んでいますが、この考えは全く変わっていません。

さあ、若者のみなさん! 大きな夢を載せたさがみこファームを大空に飛び立たせるしごとに、私たちと一緒に挑戦しませんか。

(山川陽一)

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