「がんばろう」という言葉の便利さ

10年前、東日本大震災が終わった後「がんばろう!日本」という垂れ幕が、商店街や公共施設、店舗や広告などでみかけることになったのを覚えているだろうか?

一時期どこをみてもそのフレーズだらけになっていたのだが、実はそのフレーズに対してネガティブな反応もあった。

「被災者じゃない、現地とは遠い人がさも当事者かのように簡単に『がんばろう』というのはどうなのか?」

ということだ。
この声に対して斜に構えすぎとか、それこそ当事者じゃない人が言っているんじゃないかとか、という意見もあったが私はこれは正直な気持ちじゃないかと思う。

マラソン選手が走っている最中に頑張れと応援されると「うるせえ既にがんばってんだよ」と心中で思うことがあったと、どこぞで書いているのを目にしたが、安全地帯にいるひとをうっとおしく思うことは何のおかしくない普通の心の動きであると思う。

そう感じることがあって以来、企業のSNSの運用支援の際「がんばろう」という言葉の使い方にはかなり気を使っている。「がんばろう」という言葉は、あまりに便利すぎるからだ。

つらい時、悲しい時、大変な時、緊張している時、悩みがある時、とにかくなにかネガティブな状態に対して、とりあえずかける言葉のひとつだ。ハイハイしている時から、死の淵にいる時までどんな時シチュエーションでも使える。

というか、

そもそもなのだが日本人は頑張ろう頑張ろう言い過ぎなんじゃないか。(古い頃でいうと1929年の全力のがんばれ実況「前畑ガンバレ」なんてのもある)

一昔前は一体感があればよかったけど、今は1000人に1人の声や、1万人に1人の声も大きく取り上げられる時代である。なんとなくの一体感でもろもろを包み込む「がんばれ」の言葉は、今ではリスクが大きいように思う。

がんばれという言葉は基本的にひとりでは完結しない。
誰かに「期待」とか「願望」とかそういうものをかけるものだ。そういったものを私が恐ろしく思うから、こんなにもがんばれという言葉にひっかかっているのだろうか。

よくわかんないな。

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