見出し画像

ガツガツからボチボチへ

こんにちは、研究員の冨永です。

前回の山川さんの記事を読んでいて
「手に入れる」と「手放すこと」について
それらと「筋トレ」の関係について
とりとめもなくぐるぐると考えが巡りました。

それは多分、僕が若い頃から筋トレや運動を続けていて
加齢とともに、それらとの向きあい方が変わってきているからだと思います。
その変化の様子は、『「手に入れる」から「手放す」へ』
という言葉で表すことができそうです。

僕が筋トレを始めたのは高校の頃で
大学時代は陸上部で短距離選手として
ガツガツと走っていました。
ともかく体に負荷をかけて筋肉を鍛え
反復運動に耐えられるようになれば走るのが速くなる
という素朴な信念で運動していた気がします。
もちろん、技術的なこと(フォーム、あるいは脱力)
も考えてはいましたが、根底にあったのは
「筋力を手に入れれば速く走れる」でした。

そのまんま40歳近くまで短距離走を続けました。
何度も故障に泣かされながらも
年代別の県記録を樹立したこともあります。
ちょうど県記録を出した翌年あたりから
繰り返す故障に心身がついていけなくなり
速さ、強さを求めるのがキツくなってきました。
速く走れない自分と向きあうのもまたキツかったです。

陸上競技に対して低空飛行の時期がしばらく続いた後
50歳の声を聞く頃からでしょうか
「ボチボチ走る」ことが心地よくなってきました。
「ガツガツからボチボチへ」です。
もっと鍛えてもっと速くではなく
今ある心身をできるだけ上手く使って心地よく走ることを
目指すようになっていました。

今も筋トレは日課ですが
もっと重い負荷を、もっと太い筋肉を、という考えはなく
丁寧に、丁寧に筋肉の細部の声に耳を澄ませながら運動します。
今日より明日の方が強くなっていたい、ではなく
60歳になってもできることを今日も明日も、という感覚です。
いつの間にか「ガツガツ、強く、速く」という考えを
「手放して」いったようです。

弱い負荷で運動するので、筋肉は太くなりませんが
以前より効率的に動けているように感じます。
畑作業に慣れたお年寄りが、延々と鍬を振るうことが出来る
そんな感覚が、少しだけわかる気がしています。

速く走れなくなってきた頃
自分に対する不満も不安もいっぱいでしたが
今は、そのような心の揺らぎはなく
今できる分だけできれば十分といった感覚です。
達観、とまでは言いませんが
以前ほどの波風は、ありません。

そう言えば
最近、急に、ゆっくりよく噛んで
食事するようになりました。
若い頃は、とんでもない早喰いだったのに。。。
何か関係してるのでしょうか。

冨永良史/Safeology研究所研究員・発創デザイン研究室代表

いいなと思ったら応援しよう!