手に入れる学びと手放す学び、または固さと柔らかさに関して
Safeology研究所の山川です。
前回のnoteで田中さんが「何もないけど、何でもある」という相反するものが同時に存在する話をしていました。それを読んでいた私の中で、学びに関して「手に入れる学び、手放す学び」という相反する学びのイメージが沸き上がってきました。
普通の学びは「手に入れる学び」だと思います。知識やスキルを手に入れることにより、何かができるようになったり、今まで見えていなかったものが見えるようになったりします。こういった学びは、自分の能力を向上させ、仕事を進める原動力にもなりますし、身の回りで起こる様々な問題を解決するためにも役に立ちます。
一方「手放す学び」とは何でしょうか?
人は生れ落ちてから「手に入れる学び」を積み重ね、世の中がどのように動いているか理解したり、他者とどうしたらうまくやっていけるかを学んでいきます。つまり、世界はこのようにできあがっているという世界モデルを頭の中に創り上げ、それに従って行動することにより、私たちはなんとか生活をしています。
しかし、この世界モデルは、自分が幼少から成人になるまで生きてきた世代、文化、環境、立場などの影響を受けて構築されたものです。そのため、成人になってから時間が経つと、世代、文化、環境は様変わりし、立場も変化します。
こういった中で必要になるのが、今までに手に入れてきた価値観やこうするべきという考えを「手放す学び」ではないかと考えているということです。こういった考えは、学習科学の分野ではアンラーニングと呼ばれることもあります。
手放す学びは、特に年齢が上がってから重要になるのではないでしょうか。成長期には、世界のいろいろなことを知るために、手に入れる学びが重要です。しかし、ある程度仕事や人生の経験を積んでくると、世界はこうなっているという自分の見方から離れられなくなり、世界の変化についていけなくなってきます。もちろん、時代に迎合するだけが良いことではないので、自分が育った時代の価値観に忠実にという生き方もあっても良いと思いますが、あまりにもそれが行き過ぎると、弊害が出てくることもあります。
ここまで書いてきて、この学びの二分類は、身体の固さと柔らかさと似ているなと感じています。私は、毎朝簡単な体操と筋トレをしていますが、これをやらないと次の日に身体がこわばっているのを感じます。このこわばった感じが、手に入れる学びで世界はこうなっている、というところから動かない自分と似ているなという意味です。
体操は若いころのスポーツ前にやっていた筋肉の柔軟性というよりは、骨と骨、骨と筋肉、筋肉と筋肉などの身体の各部のつながりを再調整し、身体が連動して動きやすくするというイメージです。
ただ、65歳を過ぎると、体操による身体の調整だけではダメで、筋トレで筋肉を鍛えることの重要性も実感しています。ちょっと放っておくと筋肉が弱り、今までできていた動きや活動もやりにくくなるので、向上するのは無理としても、落ちるスピードを少しでもゆるくできるといいなと思います。
年齢を重ねると、身体も心(思考)も固くなっていきますが、体操や手放す学びで、柔らかく柔軟に保ち、これからも生活していきたいと考えています。ただ、そのためには柔らかくするだけでもダメで、同時に固さ(強さ?)も確保する必要があると感じています。
(タイトルの写真は八ヶ岳の麓で撮影しためずらしい雨氷の写真)
文/山川 修(Safeology研究所代表)