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さみしさの外側を、散歩する

至極まじめに外出を自粛しているので、本当に徒歩5分以内でいけるコンビニとスーパーとその間にある花屋にしか行っていない。家のなかを掃除し、整え、仕事をしているか、noteを書いているか、本や映画をみているか、あつ森をやっているかの生活がきっちり1週間つづいたので、昨日は夫と家のまわりの広い場所をぐるりと一周散歩しに行った。なんだか「自粛」と思い込みすぎて外へ出る回数自体が減ってしまっていたのだけれど、心と体の健康のためにも、本当は1日1回くらいの適度な運動を(十分に気をつけながら)行うほうがいいんだろう。


外はかわらず美しかった。

天気がよかったから人は幾らかいて、犬はキツネのように弾みながら歩いているし、生まれたての子供は”こういう世界”しか知らないような顔をして日差しに目を細めていた。その横で、桜はかわらず美しく吹雪いて、ハナミズキもぷっくり蕾をつけて。その何も変わらなさにちょっとだけ悲しくなってしまう。たぶんそのむかし戦争が頻繁に起こっていたときも、もっとむかしに恐竜が絶滅したころも、世界の美しい側面だけはそのまんま続いていたのだろうし、いま自分たちも、さみしさと悲劇の外側を、なにごともないように歩いて、美しさだけを味わっているのだろうと思って、きゅっとなった。


夫は玄関を出るときに片手に、いや片足にサッカーボールを持って出てきて、蹴りながら歩いている。ときおりわたしにパスして、わたしは夫に蹴り返すと、ただポンと渡しているだけなのに「わあ、じょうずだねえ」といちいち褒めてくれる。そうですか。才能ありますかね。調子にのって、夫に足をひらいてゴールをつくってもらい、「そこに入れます」と言ってぼんと蹴ると、ボールは足のそとっかわにザラザラと音を立てながら転げていく。「もういっかいやります」。ぼん。そとっかわへザラザラ。結局、何度繰り返してもゴールにならなかったので、ついにはドリブルをしながら夫に接近して強行ゴールするという手段をとったのを最後に、しずかにサッカー選手を目指す夢をあきらめた。夫は家を出てからずっと、なにか嬉しそうにぽこぽことボールと遊んでいる。途中しらないおじいさんが「自粛なんて冗談じゃないよなあ」とわたしたちに話しかけてニッコリ笑ったが、なにをどう言えばいいのかわからず口をつぐんだ。おじいさんにとっては、変わらない暮らしの延長線上にある1日だったのかもしれないが、世界はあきらかに変わっているのだから、わたしたちだけ変わらないなんてできないのにと、あとから思った。

家へ戻ろうとする背中にむかって、風がつよく吹き付ける。
ふりむくと桜の花びらがわたしに向かって飛び込もうとしていたから、仁王立ちで迎え撃った。知らない間にすすんでいる春をひとしきり受け止めて、夫がいる方向をチラと見ると、夫は春のなかでサッカーボールを蹴り、跳ね上げ、受け止め、ちいさく動き続けていた。

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