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“母は強し”の裏側は  #今日もLINEからつながる

「女は弱し、されど母は強し」というのは、『レ・ミゼラブル』を書いたヴィクトル・ユーゴーの言葉である。

“母は強し”。

恥ずかしながら、友人や姉など身の回りの「母ではない人」が「母になっていく過程」を目の当たりにするまでは、この言葉になんの違和感もなかった。母、イコール強い。それは1+1=2くらいの常識であるような、言うまでもない当たり前の事柄であるような、そんな気分だったように思う。

けれど、やっとわかってきた。

母になれば自動的に強くなるわけではないし、痛みに鈍感になるわけでもない。それでも世にいる多くの母が、周りの人を「強いなあ」と感心させているのだとすれば、それは母たちの並々ならない努力の賜物に他ならない。

わたしの母も強い。時に強すぎるほどに。



母は、朗らかで愉快でやわらかくて、なにより我慢強い人である。21歳の時に30歳の父と結婚をして、23歳で姉を産み、その3年後にわたしを産んだ。

幼い頃からおしゃべりモンスターであったわたしたち姉妹に、料理中も食事中も入浴中もトイレに行っている間さえも話しかけられつづけ、じつにどうでもいい話を延々聞かされていても、きちんと丁寧なリアクションを取り続けてくれていたし、父の4回の転勤についていき、自分の親も古くからの友人もママ友も次々会えなくなる環境下にも関わらず、全国どこでも変わらないいつもどおりの笑顔をつくって、わたしたちのための安全地帯を作り続けてくれていた母。

恵まれたことに「母イコールめっちゃ優しい!」と貴重すぎる数式の中で育ったわたしは、すこしでも不調があれば母にすぐ報告をして、慰めてもらったりアドバイスをもらったりしていた。お腹が痛い、頭が痛い、学校に行きたくない、嫌なことを言われた、あんなことがあった、こんなことがあった……。わずかな不満もすぐに話して、「ねえ、お母さん、助けてよ」とドラえもんばりに頼っていたものだった。


だが、ふと思う。
一体、母は、誰に弱音を吐いていたのだろうか。

いや、おそらく。
どこにも吐き出せなかったのではないか。

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数年前に聞いて、驚いた話がある。
わたしが小学3年生の頃、母がじつは、一時的に記憶をなくす症状に陥っていたというのだ。

「朝、さえりちゃんとお姉ちゃんと、お父さんが出かけていくと、ふっと記憶がなくなってね。スーパーには行くんだけど、自分がなぜここにいるのかわからなくなって、買い物を終えると、次は帰り道がわからなくなって。ここはどこ? 家はどこ? 何をしようとしていたんだっけ? って何もかもが曖昧になってね。でも『この川沿いを歩けばよかった気がする』といつも思い出してなんとか家に着く。夕方になって家族が帰ってくるとフッと元に戻るんだよね。そういう暮らしを続けていたの」。


さらに、その当時、なんと父は鬱病を患っており(知らなかった)、姉は夜驚症という夜中に叫び出す症状を持っていたという(知らなかった)。同じ時間を、同じ家で共に過ごしていたにもかかわらず、わたしはぐっすりと眠っており、全く、本当に全く知らなかったのだ。ちいさな社宅のちいさな部屋の中に、困難がびっちりと詰まっていたというのに、わたしのなんと幼かったことか。父も自分のことで必死、姉も自分のことで必死。だから母は誰にも(父にも)自分のことは話さなかったという。


「ま、記憶が飛ぶって言っても、家族のことを忘れたりはしなかったから」。

大人になって、一度だけその話をしてくれた母は笑っていた。

「頼りにはならなかったと思うけど、話してくれたらよかったのに」。

今思えばトンチンカンな受け答えをしたなと思う。小学3年生のわたしがどれだけ頼りになるのか、今では想像することしかできないが、少なくとも、アドバイスをくれる存在でないことだけは明白である。それでも母は「話してどうなるのよ」と責めたりもせず、「頼れるものなら頼りたかったわよ」と憎むこともなく、「み〜んな大変だったから。そんなこともあったよね」とごまかして笑うのだった。


聞いたときも、書いている今も、胸の奥がぎゅっと切なくなる。

問題だらけの家族をまるっと支えて、安全地帯を作り続けた母は、川を辿らないと家へ帰ることすらできなかった。疲れて、悩んで、苦しんで、はちきれそうになる夜をどう越えたのだろう。考えれば考えるほど、2000年のあの福岡の社宅まで飛んで行って、わたしたちを見送った午前中の母を抱きしめたい気持ちに駆られる。そんなに強くいなくていいよ。母は強しなんて、あんなの昔の人の戯言だよ。いいよ、頼ってよ。

そう言ってくれる友人は、いたのだろうか。

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高校生になった頃、母が辛さにじっと耐えている夜を見たこともある。

姉が上京し、もともとマメではなかった姉の連絡がさらに減っていたときのことだ。詳細は思い出せない。たしか母は何かを心配していて、なかなか連絡をしてこない姉に気を揉んでいたはずである。

「もうさ、気になるなら連絡すれば?」。わたしは簡単にそう言ったが、母は「いいのいいの。お姉ちゃんにはお姉ちゃんの暮らしがあるから。邪魔したくないし、待っていれば、きっと来るから」と言う。

笑っているつもりであろう顔は弱々しくて、さみしさが血管すべてを巡ったせいで血の気がなかった。

夜中にもう一度部屋をのぞくと、母は布団のうえで鳴らない携帯を手にしていた。何かの試練に耐えるように、肩を落として、背中は丸いカーブを描いて。記憶に残るその姿は、冬の冷たく静かな雨の中でうなだれて、晴れる時をただ耐え忍んで待つ野草と重なる。

ーー“母は強し”の裏側は、こうなっているのだ。


年々きづいていく母のこと。これまでは見えなかったものが少しずつ明らかになっていく。それでもわたしは“子ども”だから、“母”に一体なにをしてあげられるのだろう。

やがてわたしも上京したが、母とは頻繁に連絡をとりつづけた。時にはどうでもいい話をして、冗談を言ってLINEでくすくすと笑い、悩みを相談し、弱音を吐いて。距離は離れても、親子の関係は変わらないまま時は過ぎたように思っていた。

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だが、母はすこしずつ変わっていった。

時折、自分のことを「あたしね」と言うようになったのだ。
そして直後に「あ、間違えた、お母さんね……」と言い直して、照れ臭そうに笑って続ける。


「なんか、友達に喋ってる気分になっちゃった」。


真夜中にLINEをしてきたこともある。
「起きてるかな?」
鳴ったのは、深夜2:24のことであった。

「外は風が強くて不穏な音がして、なんか気持ちがざわざわ。不気味な音にますます眠れなくなっちゃった。寝たいよ、腰痛いよ、寝たいよ、ざわざわするよ」

当時はフリーランスになりたてで夜中に仕事をする乱れた生活を送っていたから、すぐに気づいて返信をした。その後、母は気持ちを吐露するわけではなかったが、いつもどおりにどうでもいい話をして、どうでもいい冗談で笑いあって、1時間くらい連絡を取り合ってから2人とも眠りについた。愛犬が突然に死んで、数ヶ月後のことだ。

しばらくして、雲の写真が届いたこともある。ただの雲かと思ったが、「犬に見える」と書いてあった。わたしはLINEアプリの画像編集機能を使って、雲のうえに線を描いて、犬の姿へと変えて送る。

「こういうこと?」。
「そうそう! すごいね、正解!」。

それからどうでもいい話をすこしして、LINEを終えた。
最後に「雲がね、プゥ(死んだ愛犬の名前)に見えると一度思ったら、そうとしか思えなくなってね」とポツと届いた。

たぶんあの日、母はほんのすこし寂しかったのだろうと思った。

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「女は弱し、されど母は強し」。

この言葉に続きはない。女がどう母になるかも知らなければ、どう“母”でなくなっていくのかも、わたしにはわからない。

けれど母が「あたしね」と言った、その意味を考えるとき、ほんの僅かに嬉しくなる。

わたしは願う。
母よ、どうかこれからは弱くなって。

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この記事は、LINE株式会社のオウンドメディア「LINEみんなのものがたり」の依頼を受けて書き下ろしたものです。

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(以下、LINE株式会社より)

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