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ワークライフバランスについて語るって、すごく難しいね?っていう話

学内のダイバーシティ推進部署が開催するワークライフバランスに関するランチ会に参加して思ったことは、この手のことに関して、異なった関心と立場の人間が比較的大勢(10−20人)で話すことの難しさと虚しさだった。

難しさの一つの理由は、そもそも「ライフ」自体が高度に個人的で、それゆえ一過性のイベントではお互いに理解し合えない程度に多様であるということ。

個人の体験談ベースの話題提供では、「体験談ー共感(または自分の経験の相対化)」はできても、そこから具体的に何を学んでどう風に生かすか、という流れにまで持っていくのもなかなか難しい。特に育児や介護などケアワークをになっている人間にとって、実働可能時間は限られているのなかで、限られた時間を使ってこういった集まりに参加することに意味を見いだせるかどうか。

たとえば、子育てと仕事を両立させる上で何を悩んだかは、本人や子どもの性格、家庭環境、住む場所、職種などなどによってかなり多様だし、各人にとって真剣な問題であるけれど、それらを共感しあうのはほぼ不可能にも関わらず、共有しようとしている方はある程度の共感を求めているようにも思う。これは近い関係の友達同志や、よりテーマを絞った会合(たとえば、「ここ数年の間に出産した乳幼児を育てている若手女性研究者」など)では共有や共感がよりやりやすくなるだろうが、そうでないとなかなか難しい。

加えて、ワークライフバランスは、なにも子どもがいる人間にだけ適応する概念ではないのに、そもそも子育てと仕事の両立、という暗黙のテーマにしてしまう、もしくはそれをメインの問題であるようにしてしまうことにも、違和感を感じる。

今日の参加者のなかでセクシャルマイノリティーに関する研究をしている人だったと思うのだが、今回のランチ会のフライヤーに載った写真(お父さんとお母さんが子どもを挟んでニコニコしているなど)を見て、「自分事には感じられなかった(けれども来た)」といった発言を自己紹介のときにしていた。そこには、上記の「暗黙の了解」化・「メインテーマ化」を批判するようなニュアンスも含まれていたと思う。

正直、私はまさに子どもを育てている男と女の夫婦の女側で、こういうイベントが射程している参加者ではど真ん中だと思うのだけど、写真を見て自分事として共感できたかというと、できなかった。ワークライフバランス系の雑誌などが提示する働く女のいわゆる「ロールモデル」も職種的に私には参考にならなかったし、すでに大学に定職を得てから産休を取った人の話も、私にとってはいいなあ(ないものねだり)という感情を刺激するもので、そのずっと前の段階でもがいている自分の問題に対して、物理的にも精神的にも助けを得られるものではなかった。

子どもを持つということを当たり前のようにする人もいれば、それを選択しない人もいるし、持ちたくても持てない人もいる。後者に寄り添う人もふくめ、ワークライフバランス=子育てと仕事という風潮に、違和感どころか批判的な気持ちを抱く人も少なくないだろう。同時に、まさに子育て+仕事の両立に関心があり、かつ当事者である人間が、それ以外の人間に配慮がないように見えてしまうことにも、問題があると思う。かといって、私を含め子育て+仕事の両立で色々考えている人間は、少しでも自分と子どものために良い人生を選びとっていきたいと思っているから、ここでのつながりを通じて何かを学び取りたいと考えているように思う。それほどdesperateな感情があるわけで、その背景にはその感情を生み出しただけの苦労や社会への鬱憤などがある。(この件については、あとでもう1記事を書きたい)。

結果として、こういう集まりは、「参加者の属性などをしぼった体験ベースの会合にする」もしくは「あるべき社会や働き方のビジョンについて語る」などに、参加者に何か得るものを提供するのがとても難しいなと感じた。

ワークライフバランスに関する話し合いをするとき、生活や人生を変えるための具体的なアドバイスといった実践知だけでなく、苦労の共有や共感、気持ち的な転換や、インスピレーションといったものも含めて、人は様々なことを期待していると思う。しかし、より一人ひとりがよく見える環境で、しかも自分との比較検討が可能な境遇の近さがないと、それを個人の体験談ベースに実現するのはとても難しい。様々な立場の人を巻き込んだ議論になるのは望ましいことだが、だとしたら体験ベースのカジュアルなものではなく、よりアカデミックな考察枠組みなどを元にして展開したほうが、参加者の得るものが大きいのではないかと感じた。

同時に、私も含め、そもそもワークやライフのバランスに関心のある当事者は、おそらくそれなりの情報や文献などに接していると思うし、様々な苦労を経て来ている。人の体験談やアドバイス(たとえば家事代行を使うなど)だけを聞いて、なるほど、と思えるかというと、そうじゃない(これは上記に書いたように、ライフが極めて多様だからという理由による)。そういう意味でも、関心を持ち始めなのか、それなりに長い間関心を持って来ているのか、当事者なのかそうでないのかにもよって、こういった集まりに期待するものもだいぶ異なっているように思う。

と、ここまでかいて置いて、こういう(人を分断していくような)社会はとても寂しいなとも思った。正直にいうと、私は今日、自分の居場所のなさを感じたのだ。子育て中+若手研究者+仕事とのバランスで色々思うとことある、という本日の設定されたテーマにはドンピシャの当事者でありながら、結局は一人なんだなあ、という感じ。自分の体験が評価も認知もされないという孤独感。自分と同じ(似た)体験なのに、誰かの固有のもののように語られてしまうという疎外感。そして何も答えがない(自分で出すしかない)という手応えのなさ。こういう状況を乗り越えるために、人との対話があるのに、なぜかそれが助長されることもある。これはそんな経験から書いたエントリーです。

(写真と記事は(あまり)関係がありません)


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