見出し画像

「自分ごと」として胸元に持たされてしまう不思議

■初めてnote書いてみたら・・・■

note初挑戦の記事を書いたことを境治さんにツイッターで報告したら、早速反応してくださり、相澤冬樹さんがそれをまた記事の中で紹介してくださった。
おもしろい。
相澤さんの記事だけでなく、昌子(仮名)さんの動き、境さんの提案など、電通とか、入ってないんでしょ?なんでこんなに上手なの?と不思議なくらい。

■当初の流れを振り返る■

3月18日に週刊文春が発売され、3月19日に提訴、記者会見。ここまではわかる。
その後がすごかった。「完売」からの「全文公開」。
ああ、知りたいと思っている人はいっぱいいるんだなと感じられて頼もしかった。
相澤さんは昌子さんの「真実を知りたい」という想いを強調するし、それがあるべきスタンスだと思う。
が、この時点では、「これで安倍政権倒せるかも」と期待した人の方が多かったのではないかしら。どうなんだろう。
で、私は、相澤さんのこのスタンスこそが間口を広げているんだと感じている。
相澤さんと境さんのあの激論がある前から。だから4月24日のあの放送がおもしろかった。

うわ、すごいな、とか言ってる間に次の号が発売で、酔談で裏話や深い話が聞けるし、へえーと言ってたら3月27日にはネット署名が始まった。それそれ!待ってました。絶対署名する!そういう感じで、ほんとにうまい展開だなと思った。
個人でがんばって興味を持続するのって、決心してても難しい。こうして参加した気分を持ちながら、いられるというのは心強い。
決してエンターテイメントとして消費してるとかじゃなくて。

■私個人のこと■

私はあの政権には早く退場してほしいと思ってきたので、その立場からの視点を書いておく。
大体、市民側というか庶民の側は、上で見たような「作戦」「展開」が下手で、負けることになっている、歴史的に。
当初ちょっとした作戦があったとしても、そんなに長いこと次の手を打ち続けられることってそうそうない。それで結局忘れられちゃう。

で、もう私は傷ついて、あきらめて、立ち直れないという状態がデフォルト。
だって心があるから。
みんなが憤るようなことがあったら、改善されて、筋が通る世の中であってほしい。だけどそれは叶わない。日本では必ず私が望むのと逆方向にことが進むから。
今まではずっとそうだった。「人間らしい社会」「個人が尊重される社会」など、実現しない。
だから、そうやすやすとは盛り上がらない。だって再び傷つくのは嫌。くたびれもうけももうごめん。期待はしないことにしている。
色んなことに憤るけど、何もできない。
経済的にも苦しくて自分の生活で精一杯だもん、できることはない。
SNSでシェアしてみたって影響はない。同じ考えの人の中でぐるぐるするだけ。
私の憤りが社会を変えるなんてことはない。
その諦念の上で、それでも何もしないよりは、と書いてみたりシェアしてみたりしている。

■「自分ごと」として胸元に持たされてしまう不思議■

それなのに。
この件では、あれ?もしかしてこれは期待が持てるのでは?と腰を浮かすようにして、「わくわくすべき?それともまた裏切られちゃうのかな?」と様子を見ていた。そういう人多いんじゃないか。

そして、この件、とても展開が早い。
飽きる前に次。必ず次。
そしてそれがネタ切れとか不発の心配が全然なくて、毎回、非常に、興味深い。
これが「満を持して」ということなのかなと思う。

というわけで、「様子を見る」時間はさほど長くは持てず、あれよあれよという間に、巻き込まれているというか。
「自分ごと」として胸元に持たされてしまった、というような、不思議な感覚がある。
しかし、無理があるわけではない。
こういうと語弊があるかもしれないけれども。「え、おもしろい。もっと知りたい。え、何、次があるの?わ、もっとおもしろそう。わ、ネット署名?それなら私にも今できる。」と、「追いかけたくなる」形で展開してくれていて、しかもネット署名やyoutubeやnoteでのサポートなど、「何かできることあるかしら?」という気持ちが路頭に迷わずに済むように提示してくれている。


さて・・・、長くなるのでこの辺で。続きはまた書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?