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来るもの 去るもの

生きていると出会いと別れは避けて通れない。楽しいことばかりを選んで暮らしていくわけにはいかない。辛いことを避けていては自分で扉を閉ざすことになる。
今出会った人が先々恋敵になるかもしれず、昨日別れた人が生涯の友に成り得た人だったのかもしれない。うっかりしていると看過してしまうことや忘れてしまうこと。記憶に埋もれさせないように遺しておきたい。
こうして書いていくことは自分の中で『ケリをつける』ことかもしれない。また、みたくなったらぼんやりした記憶からガムテープで閉じて封印した箱を取り出そう。たぶん「アレ、こんな風だったかな?」と曖昧さに苦笑する。都合よく脚色していたことに気付いてあ然としたりもする。
自分の記憶に仕舞った瞬間からもう一人称の過去になる。客観性など微塵もない私だけの物語だ。
子どもの頃は毎日が新しい出会いに満ちていた。好奇心が強いので知らないことが多くあって、知ることが嬉しくて楽しかった。別れもあったがそれを強く悲しむのは一時だった。
時が流れて出会いよりも別れの数が、お祝い事よりもお悔み事の数が増えて行く。叔母が以前「もう随分祝い事に呼ばれていない。お葬式には呼ばれるけれど親戚の結婚式も少ないし、寂しい」と言っていた。年代が上がり、子ども達も粗方結婚すると、もう次の世代は付き合いが薄くなる。昔のように大勢を招く派手な結婚式も少なくなった。当然呼ばれることも減る。面倒事が少なくなってほっとしているわたしは薄情なのだろう。
毎日暮らしている家族でも気に入らないことも腹の立つこともある。たまにしか会わずに上辺の付き合いだけなら祝辞を述べて御祝儀を渡して、ニコニコしている内にお開きとなる。色々な気付きや愚痴も料理やドリンクと一緒に呑み込んでその場のピースとしての役割を果たすのが大人というものだ。何年かしてうっかり集合写真を開いても何一つ具体的なことは思い出せないかもしれない。確かにそこに微笑んで写るのは自分だとは分かるけれど。
昔から人付き合いが苦手だ。
知らない人と当たり障りの無いことならいくらでも話せる。
友達になってずっと付き合うとなると後退りしてしまう。自分から壁を作ってしまう。思い当たる理由は実はある。中学の時に同じ小学校から進んだ子から突然電話が掛かってきた。同じクラスになったことはなく話をしたこともなかったと思う。ただ彼女は成績が良い優等生であったし、生徒数が少ないから存在は知っていた。何故か急に買い物に行こうと誘われた。そして、友達になりたいと言う。今までは気が合う子と一緒に遊んだりするのが友達だと思っていた。
少し違和感はあったが特に断る理由もなく、押しが強かったこともあって友達として付き合い始めた。中学生女子の他愛もない誰それが好きとかも話していたし、同じ塾に通っていたので勉強の話もしていた。
高校受験となり、同じ受験校だと知れた。2校のグループで合格するとどちらかに振り分けられる選抜方式だった。二人共合格したが別々の学校だった。塾の最後の日に、学校が違うとあまり会えなくなるなと思って雑談していたら、いきなり「私、○○君のこと何とも思ってなかったんだ。話を合わせていただけだよ。あなたを友達だとも思ってないから」と言い出した。混乱する頭の中を何とかまとめていると彼女は勉強とか受験の情報が得たくて友達のフリをしていたのだと言う。やっと抱いていた違和感が腑に落ちた。
やっぱりというかなるほどというか、もう利用価値も無いし、関係を切りたかったんだと思う。だから毎年年賀状を出しても返事は来なかったんだと気づく。
それからは友達になろうと言われると身構えてしまう。その時は平気な風で「そうだったのね」とか言ったけれど少なからずショックだった。その後は一度も会ったことがない。今でも会いたくないし、彼女のことは嫌いだ。たぶん彼女は私のことが大嫌いだと思う。




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