世界の輪郭は名前に宿る。

大学時代「短歌創作入門Ⅰ」という授業があった。学生一人ひとりがお題に沿った短歌を読んで、どこがいいのか、どうすればもっと情感がこもった歌になるのかを議論していく内容だった。自分にはない視点が掘り出されるのがおもしろく、他の授業は休んでもその授業だけは欠かさず出席した。穏やかで優しいおじいさん先生は、朝刊に短歌の批評を書いているような著名な歌人だった。

秋の終わり頃だったと思う。教室を出て、校内の植物の名前を調べながら歌を詠む授業があった。

「「あの木の下で」と詠むよりも、「あのメタセコイヤの木の下で」と詠んだほうが豊かな情景を感じる歌になるでしょう?」と先生は教えてくれた。確かに、言葉から情景を浮かべる時に「あの木」だとぼやけた景色しかないが、ちゃんとした名前があるだけで歌が一段とくっきりして感じられる。歌だけじゃなく、見慣れている景色すら、名前を与えられることで少し鮮やかになったような気がした。普段は気にも留めない木々に、それぞれの名前があるのだいうこと。ひとつひとつの命が、そこにちゃんとあるということ。それを意識するとしないのとでは、見ているものすら違ってくるような感覚に驚いた。

それからというもの、私は植物の名前を調べるようになった。その習慣は今でも続いていて、娘との散歩の途中で知らない草花があると「また景色が鮮やかになるぞ」と思えるから少し嬉しい。それに最近では、写真を撮るだけで草花の名前を教えてくれるスマホアプリまで登場している。とても画期的なアプリなので、世界中の皆様に勧めたい気分である。

家の前にあるのは大きな「ムクノキ」は、この暑さに負けず、緑まぶしく生きているし、駅に向かう街路樹の「シラカバ」はいつだって清々しい。公園に向かう道で咲き誇っている鮮やかな花は「タチアオイ」だ。意識していると、それぞれの名前を持つ、誇らしいいのちに囲まれていることに気づく。その花の美しさ、葉のみずみずしさにはっとさせられると同時に、それらを慈しむことのできる幸せを想う。決して、この平穏な日々は、当たり前のものじゃない。目に見えないウィルスに世界中が混乱する世の中に生きるからこそ、小さな雑草の名前をも覚えておきたい気持ちになる。

ちなみに、私のお気にいり「タチアオイ」の花言葉は、「大きな志」。閉塞感のある日々のなかでも、真っ赤なその花を見るたび「今日も頑張ろう」と元気づけられている。

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