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自己紹介②_大学から大学院へ

就職難

2000年、私は大学を卒業するにあたって、就職氷河期という時期に当たっていた。

高校最後の担任が、2000年卒業は覚えやすい、と言っていたのだけれど、今となれば本当にそう。浪人しても、2001年宇宙の旅、みたいでこっちも良いよと軽口を叩いていたことすら覚えている。余談。

9人いた研究室の仲間たちが就職活動に難航しているのを聞きながら、アートの仕事に就くにはどうすれば良いのだろう、と考え続けていた。

4年間って短い

4年間は、あっという間だった。
裕福でもなかった家庭だったので、授業料は親が負担し、仕送りはゼロでスタートした大学生活。
奨学金をもらいながら大学の女子寮に入り、入学してからすぐにアルバイトも始めた。
アルバイトも沢山した。常時3つは掛け持ちをしていた。
使う時間がなくて、日払いの千円札が溜まっていく・・・そんな日々もあった。

そのなかでかろうじて卒論を書き、卒業することができた。
しかし、専門職に就くためのスキルは何もなかった。

頭を下げる

どうしても、アートのそばで働きたいと思ったとき、猶予を伸ばすしかなかった。
私が大学院進学を決めたのは、タイミングをずらすというのが一番の理由だったと思う。もちろん、その大学院の2年か4年かそれ以上の時間のなかで専門的な知識やネットワークを手に入れるということも必要だったのだけど。

「大学院に行きたい」は親にとっては青天の霹靂だったと思う。
卒業したら働くのが普通、と思っていた親にとって、大学院とはなんぞや?というところもあっただろうと思う。
ただ、奨学金を再度申請し、引き続き勉強したいと頭を下げた私に、わかったと一言答えた。

大学の奨学金は4万円か4万8千円くらいだった。大学院はなんと11万。院を出た時にはすでに400万借金があった笑。

英語で面接

大学院の試験には、論文と英語での面接。面接官は研究室時代からの教授二人で、めちゃめちゃ緊張したのを覚えている。
英語の勉強は、週1回近くにあったおじいちゃん先生の英語教室に通っていた。それでうまくなったのかは、よく分からない。

恩師の言葉

院で奨学金を受けるとき、申請書類に教授の推薦文の枠があった。
カメハメハ大王みたいな教授に、遠慮なく頼んだところ、こんな(ような)文が書いて返ってきた。

福岡佐知子は“動”の研究者である。
研究者には“静”と“動”の2種類がいる。“静”の研究者は、研究室にこもり本を読み、考えを深める。“動”の研究者は、外に出、人に会い、見識を深める。
“動”の研究者として、大学院でも引き続き学びを続けることに期待するので推薦する。

これは、授業にろくに出ない私をよく言った!と思いつつ、「あなたの文はエッセイだ」とか超不出来だった私の、アルバイトや展覧会のインターン、ボランティアで方々に出かけている姿を知っていてもらったことが嬉しかった。

ここから、今に至るまで、私は実は自分のことを“研究者”だと思っている。
実践する研究者、その立ち位置をつくったのが、22歳のこの恩師の言葉だった。

インターンに明け暮れる

奨学金のおかげで少し生活にも余裕ができ、大学院では、展覧会の手伝いや文化施設でのボランティア、アーティストの手伝いなどを主軸に活動した。
今思えば、第一次種まきの時期、だったと思う。

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