また誰かが死んだ。

人の死は深く自分に関わっていた人でないとリアルに感じられない。

だから、今日耳にしたニュースも、何週間、何ヶ月、何年、何十年、いつかは誰かが思い出さないと忘れてしまう。

だから私が死んだところで、思い出してくれる人なんて片手1つ分にも満たない気がしてしまう。

この文を読んでいる人は私の人生の中で死んだ友人のことなんか知らないし、わざわざ想いを馳せようとも思わないだろう。

誰かの死が、わざわざ

“印象に残る死に方″

じゃないと世間には何も、誰も問いかけない。


別に人間なんていつか必ず死ぬんだから早く終わらせるも最期まで生きるのも自由だと思う。

自殺したら地獄とか、魂の修行とか、宗教なんてクソ喰らえと思っている。うるせえんだよ。

でもやっぱり大切な人がいなくなった時私は泣いたし、死ぬことが自分自身にとっても、周囲の人間にとってもポジティブな感情を生むことはないのだろうと、なんとなくぼんやりとは考えている。

でも苦しいなら死なせてくれよ。

その苦しさが解放された先が、生なのか死なのか、それだけなのにこの世界は頑なに死を阻止する、拒否する。

私は死を美化しすぎている。それもわかっている。

以前の記事にも書いたけれど

死にたいと言えば表面上の心配をされ、いずれそれは慣れに変わる

みんな忙しいもんね?

死にたいとGoogleで検索をすれば電話番号が表示される

精神科なんて人を捌いて薬を処方して終わり

そして死んだらどうして?なんて被害者ヅラしたような言葉並べて泣くんでしょ?


もしかしたら私が今日まで辿ってきたルートが、死を意識させてしまう道筋だけだったのかもしれない。

誰かと出会っていたら、生きる意味を持てていたのかもしれないし、Googleの検索履歴は変わっていたかもしれないし、誰かを助けてあげられる人になれていたかもしれない。


でも

君、誰かを本気で救おうとしたことある?

この世界はきっと変わらない

私はまたこの“生”の世界に留まってしまった

私もきっと変われない

だから絶望だ

どうか死が美しいだなんて勘違いしてる、そんな麻薬に酔った心が醒めてしまう前に

この人生に幕が降りますように。

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