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救急外来でプライマリ・ケア

 ここ最近は、自身の大学院の学びの中心であるプライマリ・ケアに関することを徒然に書いています。プライマリ・ケアの定義やキーワードは、以前のブログでもご紹介しました。

 プライマリ・ケアと救急外来、というと、シンプルに「受診のしやすさ」である近接性を考えてしまいますが、継続性や地域志向性を踏まえたケアの提供もできるのではないかと思わせる、救急外来での一コマを紹介したブログを拝見しました。

 夜間救急外来の当直をしていると、このような社会的問題を抱えた患者さんと出会うことは少なくないと思います。社会的問題は、ネガティブなラベルを貼られてしまいがちなため、関わるスタッフに不必要な先入観を抱かせてしまいます。
 このような状況の中、患者さんの受診動機に焦点を当てて診療されたというのは本当に素晴らしいなと感じました。このようなケアがなされたことで、この患者さんの次からの診療は、患者さん本人も医療者側もより良い関係性で行われることでしょう。

 この紹介された患者さんは、ネガティブなラベルを貼られてしまうくらい、頻回受診していたと思われます。このような救急外来を頻回する、重症疾患、主観的健康状態が悪い、複雑な社会背景、不安定な多疾患併存Multimorbidity、虚弱高齢者、入退院を繰り返す、といった医療(費)を多く使っている患者さんたちのことを近年「Superutilizer(高度利用者)」と捉え、そのような層へのアプローチが重要であることが示唆されています。
 大浦先生のブログでも分かりやすく紹介されており、大変勉強になります。またPopulation health managementとして地域全体を意識したマスの視点も重要だと思います。

 このような医療機関を頻回受診する患者さんがどのような思いを抱いているか、という質的研究のシステマティック・レビューがあります。

 Shared decision makingにおいて患者経験の重要性を強調したBarryとEdgman-Levitanは、「患者の視点を通してヘルスケアにおける経験を理解できれば、私たちは患者のニーズにより細やかに対応できるようになり、より良いケアを提供できることにつながる」と述べています。

Barry MJ, Edgman-Levitan S. Shared decision making--pinnacle of
patient-centered care. N Engl J Med 2012;366:780–1.

 Superutilizerや頻回受診の患者さんについては、医学教育の視点からの調査や、ケア移行の新たなモデルなど様々な研究がなされてきています。しかし、患者さんの視点についての研究はまだ多くありません。このシステマティック・レビューは、その主観的経験を調査した文献の統合をしています。

 頻回受診の患者さんの経験を、以下の2つの主要なテーマに分けています(以下の表を参照)。一つが「病気であるという経験」、もう一つがヘルスケアにおける経験」で、前者は患者さん個人の日常生活に関わることを、後者は医療システム自体との関わりを肯定的側面・否定的側面の両方を包含しました。

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 それぞれみていきましょう。

身体的な制限

 健康状態による身体的な制限は、日常生活をこなすことすら難しく、その困難さ繰り返し生じていることが分かっており、生活を大きく変化させています。

「ほとんどすべてが変わった。 雪かき、芝刈り、家の手入れはできません。 …たとえ自傷行為であっても、歯を噛んでそれを実行するしかない。服薬は誰かが飲ませてくれれば可能だ、でもそれが難しい時もあるし、いちいち婚約者に頼むのはとてもイライラする。」 

 身体的な制限のために、趣味や余暇の活動を控えなければならないと感じています。

「私は釣りの道具としてかなりのお金を使ってきた...私は車まで歩くことさえできないから、それらを使用したことはない。」
「腕がなんとかなればいいのに…。それが今の1番の問題だ、ギターが弾けないのなら…どうすればいいのか分からない、生きる価値を見出せない。」
「孫たちとはもう何もできない。」

 そして、場合によっては、単純な日常生活のタスクを実行できなくなります。

「コーヒーの一杯すら作ることができないのだ。」

 Dwamenaらが以下のようにまとめています。

 患者は症状がいかに辛く、衰弱してしまうかついて話しました…。 彼らは、家事や食料品の買い物などの当たり前のことが実行できないと回答した。

精神的な負担

 次に、これらの身体的な制限は精神的な苦痛の要素を生み出し、それが実質的な困難を生み出します。 

「もう終わりです。私は肉体的にも精神的にも疲れきっています…時々私はそこに座って泣きます。」
「理解のない人に説明するのは難しい…心から傷つけられてしまう。濡れたハンカチを持たない限り、分からないだろう。そして、彼らは手助けできないなんて思ってもいない、家族すらも…。笑顔を作ろうとするけど、実際には何も楽しめやしない。」

 精神的な負担は一般的なものであり、Wiklund-Gustinは肉体的な苦痛の方が精神的な苦痛よりもまだマシだと感じていると指摘しており、Hodgsonらも以下のように説明しています。

「彼らの特定の苦しみは独特であると考えられており、かかりつけ医のような病気の専門家であっても完全に理解することはできない。」

関係性への影響

 頻回受診している患者さんの疾病負担は、日常生活を超えて、愛する人との関係に影響を及ぼします。多くの場合、家事を中心に生活支援が必要になりますが、それに関わる家族、同僚、友人との日常的なやり取りに関して気兼ねしたり、支援を受けることを社会への負担であると捉えて自分自身が負担になっていると思ったりすることもあります。
 また、全ての患者さんが身近に家族や友人を持っているわけではなく、独居であったり社会的に孤立していたりするため、他者が関わって生活支援を受けることがストレス要因になりえます。

「自宅に入ってこられるよう、ドアのロックは解除したままにしているか、ドアを開けたままにしてあります…もしくは、近所の人に鍵を預けてあります…。胸に痛みを感じ死にかけそうになったが、アラームを鳴らしたり、そばにいてくれたりする人はいなかったので、私は(救急外来に)向かいました。」

 一部の人は、愛する人たちの絶え間ない存在を必要としています。

「家族と一緒にいれば、問題はありません。一人でいることは、大きな問題です。 一人になるのはとてもつらい、他の人と一緒にいないのは非常に難しいです。」 

 孤独は、誰しもが持ちうる問題なのです。

自己管理

 症状の自己管理も、個々の経験の中心となる要素です。病んでいる時間が長いほど、患者さんは自分の状態の「専門家」になるため、実際に医療的なケアを求めるときは、患者さんにとって最後の手段であることが多いです。

「私はいつ(病院に)行くべきか分かっています」
「(症状が出たら)まず落ち着いて、吸入器を使うようにしています。最悪の場合は、これらの薬(抗生物質とステロイド)をちゃんと持っています…それでも悪化した場合は救急車を呼ばなければならない。もはやどうにもならないタイミングは自分で分かるし、そうなれば入院して酸素投与されることになる。」

 しかし、一部の患者さんは、「自己管理」というより、症状が発生したら、耐えられなくなるギリギリまで耐えてしまうこともあります。Wiklund-Gustinが以下のように概説しています。

「患者は、(多くの場合)できる限り「舌を噛む(我慢する)」ことを意識しており、非常に緊急であると認識されない限り、助けを求めたり弱点を見せたりすることを避けます。」

アクセスの問題

 頻回受診となる患者さんが、いざケアを求めることを決定すると、診察前の予約待ちやできるだけ早めの予約を取得するために早朝に電話する必要があるなど、医療機関へのアクセスに大きな障壁があることは少なくありません。

「早起きして、8時半に電話をかけ始めて、つながるまで鳴らし続ける必要があります。」
「かかりつけ医はいるが、受診まで2週間ほどかかることもあります。」

 待ち時間で落胆させる経験があった一方、容易に予約ができたという良い経験の報告もありました。たとえば、診療の受付担当者との優れた関係性があって、短い通知で、または短い待ち時間で予約を取得するに至ったこともあります。

「私はいつでも受診できる、電話をかけるだけで受診できる。」
「昨日電話をかけました…受付の係は私の声を分かってくれていて、そして私が本日中に受診したいことを察して、誰かが私を診てくれるよう調整してくれる。」
 そして、時には「かかりつけ医を見つけるのが難しい」ので、「救急外来に行くのが、適切なケア環境であると…安心できる治療環境だと感じました。ちゃんと診てくれるし、分断されていないケアがある…かかりつけ医にはできないケアだ。」

 しかし、待ち時間は往々にして長く、トリアージから診療までの、参加者のほとんどは、その後の待機時間が長すぎると感じました。

ケアの経験

 ケアを受けた経験に関して、大多数の研究は否定的な経験を説明しており、特に患者の話を聞いておらず、敬意に欠けた医療従事者のことがあがっていました。頻回受診に至る患者さんの多くは、医師に(自分の話を)真剣に受け止めてもらえていないと感じており、症状が無視される可能性がありました。尊厳を損なわれたり、屈辱的な感情につながる状況を経験したりしました。

「バーナードは、彼の人間の尊厳への侮辱として経験された "悪名高い状況" を報告しました。彼は失禁で困っており蠕動を促して欲しかったが、とりあえず落ち着いて呼吸をするよう指示された。また、自分でトイレに行くことができなかったので援助を求めるも、汚れたら教えるよう言われた。」

 他にも、医療従事者の偏見が否定的な経験につながっていました。

「X線撮影を希望したが、私が医療費を無駄遣いしていると言われた。それはとても屈辱的でした。」
「私がそこに行くたびに、 "また来たのか、ただの麻薬探求者だ" と言われた。」

「COPDを患っているだけで、喫煙者でもあるため、そこに偏見を感じた。」
「共感と配慮が欠如している...彼らは[判断できない]仕事をするためにそこにいます。 残りの生涯にわたって[患者]にペナルティを課すことはできないはずだろう。」

 患者さんの医学的情報を、医療者側がしっかり認識できていなかったり、複数回受診していても不明確な対応をされることがあります。 これにより、多くの患者さんが医師の時間を浪費したり、病院のスタッフからの理解不足に遭遇したり、迷惑と見なされたりする可能性があります。

「受診するのは、良くなりたいからです。 彼らが常に、時々にでもそのことを理解してくれているとは思えない。 何かして欲しいとか、元気になりたいとか思っているに関わらず、彼らがそのことを認識するのはどうも難しいようだ。」
「夫は私に、 "それ以上よくならなかったら医者に行こう” と言います。でも "なんで行かなきゃならないの。彼らは私のどこが悪いか分かってくれないし、ただ時間を浪費するだけよ。" と答えている。夫は "そうだね、でもジャネット、君は彼らの時間を浪費してはいないし、君はとても元気な状態ではないよ。" と言いました。」

 Nealらは、患者は時々彼らの病気の自然な経過における診察が早すぎるか遅すぎるかについて心配していると詳述しました。つまり、かかりつけ医が診察によって彼らの症状を精神的なものと診断してしまうかもしれないと懸念していました。
 逆に、一部の患者さんは、ケアを受けたときの経験を肯定的に説明し、敬意を払われ、適切に扱われていると感じました。

「自分の傷の縫合に気を配っています。スタッフはいつも批判的ではなく、救急外来に(私が)いることを受け入れくれ、本当に丁重に扱い、適切な質問をしてくれました。」
「私は、彼らに自分自身と私の痛みについて話す機会を得ました…彼らはすべてを書き留めました。彼らは効率的に働き、いつも私に話しかけてくれました。 私は天国にいると思った。」

 また、社会的に孤立している頻回受診の患者さんは、Maloneが述べたように、スタッフによって認識されることは影響力があるとしています。

 頻回受診の救急外来患者は、病院の救急部門への強い愛着を助けとしてだけでなく、認識および包含の機関として明らかにしました。 研究中、患者は救急部門について話すとき、「ここのスタッフは、私のことをよく知っている」などのコメントを繰り返し行いました。 この「知ること」は、ホームレス(の頻回受診者)に特別な意味をもたらしました。

まとめ

 自分自身としても、身につまされる内容で、このような患者さん視点の研究の重要性を感じました。
 文献の限界として、
▶︎患者さんがより長い時間を過ごしている、医療機関の外におけるより日常に近い生活に関することは不足していること
▶︎頻回受診者の心理的負担に伴う症状は、もともとあったものなのか、頻回受診に関連した外的な要因の結果として起こったのかは、判別が困難
と指摘しています。
 ご紹介したブログの先生のように、救急外来だからこそ共感的かつ効果的にメンタルヘルスの問題に対処できるようなトレーニングを受けることは重要です。総合診療医・家庭医の知識やスキルがあると、救急外来で自然とそういった対応ができると思います。さらに、このような患者さんとの関わりを通して、地域に隠れている問題を拾い上げることにもつながるのではないでしょうか。

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