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バイバイ長い夢(noteに書きはじめたわけ)

今朝、noteに書いていてよかったな、と思えることがあったので、記念にちょっと書いておこうと思う。

今まで文章なんて書いたことがないのに、突然書き出したのは、いわゆるデトックスだった。
自分で大事だと思っている思いや考えが、くさってしまう前に、外に出そうと決めたのだった。

できごと(種)が、自分の中で育って、花が咲いたり実ができたりしたあと、外に出してあげれば、またそれが種になって、だれかの中で育つかもしれない。出さないと、くさって、過去が自分を縛りかねない。と思ったのだ。

そして、外に出すときに「美化せず、ウソをつかないこと」だけ気をつけた。

素直に取り出せば、いやなできごとの思い出にも、あとできっといい花が咲くだろうと思ったし、それが素直なひとのところに届くといいと願った。

それに、きれいに整備された理想論や、誰から見てもいいと思われるだろう話より、なんだかわかんないけど、どうしようもなくその人らしいデコボコのままの話のほうが、だれかのデコボコに入りこんでいくんじゃないかと思うので、みっともないけれど、みっともないままを書こうと決めた。


ウソをつかないために必要だったのは、恥をすてることだった。

すててみたら、「はずかしい」という自意識過剰で傲慢な考え方をなくして、ありのままを外に出すことは、自分には大きな決断のように感じたけれど、まわりから見ると、ほんとうになんとも思わないことばかりだった。

書いてしまえば、自分で読んでも、驚くほどなんでもなかった。


何かを手放そうとするとき、さよならするのは、そのモノや人にではなくて、自分の中の依存心に、だ。

はずかしいとか、思い出したくないとか、嫌われるかもしれないとかいう考えは、わたしが自分の中で勝手に作り出したフィルターという形の、依存心からくるものだった。

イヤだからしまっておいて、なかったことにしていたはずが、いつのまにかそれに依存していて、自分はほんとうはまだ完全じゃない、と思い込んでいたのだと思う。


わたしが書いたものを、思わぬ人が読んでくれたり、感想を言ってをくれたりした。

「ひとは、ほんとうのことを言われたときに、反射のような反応をする」と日頃から思っていて、その反射は、怒りとしてでることもあれば、よろこびとしてでることもある。(それを外に出すかどうかは、また別の話)

だから、ほんとうに思ったままを書かなければ、書き始めてから出会った人や出来事も、ちがうものだっただろうな、と思う。


早い話が、ほんとうに書きはじめてみてよかったなと思う。

書くか、書かないか。

選択することは、やるとやらないの二択を繰り返していって、半分に半分にどんどん世界が狭くなっていくのかと思うけれど、ほんとうは、選んだ扉の向こうにはまた新しい景色がひろがっていて、それは選ばなければ見えないもので、狭くなるどころかどんどん広くなっていくんだ、ということを実感している。

そして、「出したら、新しいものが入ってくる」とよく言うけれど、もしかしてほんとうにそうかもしれないという予感がしている。

おもしろいし、うれしい。それが今の感想だ。

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