「アイスクリームが届きますよ」とお知らせしていた、桃の香りの夏のこと

23歳の夏、わたしは妊婦だった。

冬に妊娠がわかってから4ヶ月間つわりがひどくて毎日吐き続け、水ですら吐いてしまうので点滴を打つためにしばらく入院していたほどだった。

目が覚めた瞬間から眠りにつくまで常に気持ちが悪く、文字を読むことも画面を見ることも困難で、薬も飲めないのでただただ耐え続ける地獄のような日々だったが、ある日突然、ほんとうに突然「あ、もう気持ち悪くない」と身体ごと生まれ変わったような日がきた。

朝起きて気持ちが悪くないというだけでうれしい気持ちと万能感にあふれ、「なんでもいいから働きたい。働こう」と思った。


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妊婦でもできる短期間の仕事を探し、高級フルーツを販売する会社でお中元の時期だけのアルバイトをすることにした。

仕事は、配送伝票の仕分けやフルーツの梱包や在庫のチェックなどの簡単な作業だった。ただ淡々と黙々と作業をする仕事はそう楽しいものではなかったけど、毎日寝ているしかできなかった無能感から解放されるには充分で、とてもありがたかった。

ときどき、スタッフの方が「妊婦さんだから」と、熟しすぎて出荷できない桃をこっそりくれたりもした。果物は高価で、自分のお金で桃を買ったことなどなかったので、うれしいご褒美だった。よく熟れた桃は、甘さも香りも濃すぎて切ったそばから溢れて口の中にも収まらないほどで、部屋中が甘い香りになった。


それから、単純作業の中にすこしだけ好きな仕事もあった。

お中元の商品のひとつに果物を加工したアイスクリームがあって、ドライアイスを詰めて冷凍便で発送するのだけど、お届け先が不在で何度も持ち戻りになってしまうとドライアイスが溶けてしまうので、事前に確実に受け取れる日や時間などを指定してもらうために贈り先の方に電話をかけるという仕事だった。

知らない人に電話をかけるのも話すのもかなり苦手だけど、その電話は「あなたの家にアイスクリームの贈りものが届きますよ」という要件だったので、電話にでた人がはじめは不審に思って尖った声で話していたのが、要件がわかると「ああ、あの人からのお中元ね」とやわらかくなるのがすきだった。

もうすぐいいことがありますよ、とお知らせするのは、天使が肩をたたくような仕事だなとひそかに思って気に入っていた。


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同年代の友達はみんな仕事に恋愛に忙しく、妊婦仲間も子育ての相談をする人もいなかった。お腹の中の子供が産まれたらどんな生活が待っているのか、来年は何をしているのか、10年後は何をしているのか、なにもわからなかった。どこにも所属していない、何者でもない、心許なく先が見えない夏だった。

あまりに不安だったからか、その時期の記憶がほとんどない。住んでいた部屋の間取りも、人に会った思い出も、考えていたことも、誰かとの会話も、楽しいとか悲しいとかの自分の感情も、なにもおぼえていない。

ただ、わたしはあの夏たしかに、毎日「あなたにアイスクリームが届きますよ」とお知らせしていた。


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あのときお腹の中にいた赤ちゃんは今年で17歳になり、先日、高校の同級生と一緒に山梨の桃農家さんのところに収穫と出荷の短期アルバイトをしに行った。

自分たちで生活をしながら働くのはとても大変でとても楽しかったようで、帰ってきてからあれこれ話を聞かせてくれた。

その話を聞きながら、桃の香りの中で働く彼女を思ったら、遠くに忘れていたあの夏のことを思い出したのだった。

彼女もいつか桃の香りでこの夏を思い出すのだろうか。そのときはわたしもあの夏の天使の仕事の話をしようと思う。


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