世に蔓延るセクハラについて思うこと
仕事をやめた、それが原因で。
そのものというより、それによって見えた会社の在り方だったり、組織の姿に失望して安全じゃないと思ってその決断をした。
正直、なんとなく辞めたいなという思いがず〜っとあった中で、私の背中を押してくれたのでその意味では肯定できるけど、本当に最悪だった。
もちろん、加害者やマネジメント、経営層、会社に対する憎悪や裏切られたような気持ちでいっぱいになったけど、そんなものでは終わらない。
勇気を出して訴えた時のマネージャーの反応は今思い出しても許せない。溜め息を吐いて、半年も前じゃないかとひとこと。失望したし、私はこんな奴の元で必死に働いていたのかと絶望もした。失望と絶望のセット、なかなかない瞬間だ。部長は謝ってきたが、状況は変わらなかったし、大人って口だけだと思った。役員との時間も設けられたけど、ただギャルと話しただけだった、なんだったんだろうあれ、本当に無駄だったし、早く抜け出したい気持ちに輪をかけた瞬間でもある。
そしてその時のことは未来永劫、付き纏うのだ。昨日のように蘇る。
あの時の記憶や感覚、やるせない気持ち、全てである。それは、ニュースで性加害の報道を目にした時、ドラマや映画でその手のシーンを見た時もそうだし、生活の中で年上の異性と接する時、不覚にも男性との距離が近くなる時には言いようのない恐怖と不快感に襲われる。全員が気持ち悪く見える瞬間があるし、相手からの笑顔が不気味に見えることだってある。
以前、親しかった先輩(あるとき、本人の価値観をめちゃくちゃ押し付けられてドン引きしてから疎遠である。)にも、そんな肩肘張るなよ〜の意味合いで肩を触られたことがあって最悪だった。そのときは、よくしてくれてる先輩だからとどうにか自分を落ち着かせたが、ドン引きした今となっては最低。そして何度だって思い出してはゾッとする。
早く忘れたい、忘れられない、消えない。
どんなに味方でいてくれる周りの人の中でも風化するし(私がその立場でもそうなるから、これを責めるつもりなど全くない。)、どこで思い出す羽目になるかわからない。自分との闘いだ。
社会との闘いでもあるけれど、同時に自分と向き合い、自分とうまくやっていかなければならない。自己肯定感が低い私にとっては、自分を褒めたり慰めたりすることすらハードルで、だからこそ言いようのないきつさが時として伴う。
だが、起きてしまったことは仕方ない。何度にくんでもどれだけ誰かを責めても、何も変わらない。事実はずっと、そこにある。
正直会社勤めを再開することは、同時にその恐怖的環境に身を置くことと同じであり、正直気乗りはしないが日本に戻るならそうなる可能性が高いだろう。私は何をしたいのか?どうすれば幸せなるのか?答えはまだ出ていないし、ずっと出ないかもしれない。けれど、この1年で自分と向き合い、たくさん話してもっと自分を理解して、もっと自分を好きになりたい。
誰にも変われない、何にも取って代わられない自分というただ一つの存在を、確立して愛したい。
抽象的だが、私が求めているのは今はこれが1番しっくりくる。長く時間がかかるだろう、なかなかうまくいかないだろう、でもそれでいい。いつも最後は結局うまくいくし、自分で掴んできたじゃないか。
過去の自分を時に悔いて、時に認めて、そうして愛していこう。
自分を守ってくれるのは自分だけだし、1番愛せるのは自分だ。きっと、前途多難な道のりが続くけどそれすら楽しんでいこうじゃないか。
愚かさすらも愛せる強さとあたたかさを身につけたい。そうして周りの人も愛せるように。