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読書感想文 5「アウトプットする力」齋藤孝

僕の本との付き合い方について言うと、最近は一気に一冊読み通すことがほとんどない。
ある程度読んで、面白いなと思ったら適当なところでストップして、脳内「あとで読むリスト」に入れる。
そしてまた別の本に手を出す。基本的にそのくり返しだ。
昔は、一冊の本をずっと何時間もかけて読み通すことが普通だった。
年齢による集中力の違いもあるが、実際のところは、若い時は圧倒的に「ヒマ」だったからだろう。
というか、自ら招いたヒマ。わざわざ作ったヒマ。
要は「社会的責任」から逃れて好き勝手なことをして暮らしていたというに過ぎない。
ただしそれは「罪」なことでもなんでもない。日本国憲法の下、僕もあなたも「自由」に生きていいのだ。
だがおもしろいことに、たとえそうであっても、人というのは、性格や生活や趣味趣向が時と共に変化する動物でもある。
気が向いてしまったら、たとえ己のかけがえのない「時間」という、「金」とも等しいとことわざに謳われるほどの大事な財を、「社会的責任」などという「罰」に似たものに「捧げる」のもこれまた「自由」なのである。
というわけで、僕の生活タイムテーブルの中でも割合高めになってしまった「社会的責任」のおかげで、読書にかまける時間は減ってしまった。
だから、山と積まれた本から気が向いたものを一冊手に取りちょこっと読んではほったらかす。
そういう読み方に慣れてしまったので、一冊の本に対する感想をまとめることなど、それが苦手な僕にとってはますますもって至難の業なのだ。
いや、別に依頼があるわけでもない。需要などないのだ。
嫌なら書かなくても別に怒る人もいないのだ。
だが、そんな本の読み方でも何か書いてもいいといってくれる人がいる。

明治大学教授、齋藤孝先生による膨大な著書の中の一冊「アウトプットする力」という本は、「はじめに」のところでいきなり「本書で私が提案したいのは、『インプット:1アウトプット9』の割合を目指すことです。」と述べている。
あまりの極端な提案に、それはちょっとテキトウ過ぎないか?とも思ってしまいそうだが、「インプット過多でアウトプット不足」気味の日本人はそれぐらいの気持ちでアウトプットしたほうがいいとのことだ。そして沢木耕太郎のエッセイに出てくる井上陽水のエピソードが紹介される。
陽水は沢木に電話をして、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」ってどんな詩だっけ?と問う。沢木は正確に教えてあげたいが手元に資料がないので、わざわざ書店に足を運んで買ってきて電話をかけ直す。電話口で「雨ニモマケズ」を朗読すると陽水は「ふんふん、すごいね~」とか言いながらメモでも取っている様子。最後にありがとう、と電話を切る。
しばらくして、沢木が店で食事をしているとテレビから陽水が「雨ニモマケズ」にヒントを得たと思われる歌を歌っている。
この話が「インプット:1アウトプット9」の例として適切かどうかわからないが、ああ、この話は僕も知ってる大好きな話だ。そうか、知っていることはなんでもぶちこんで書いていけばいいのか、と思わせてくれる。

ここまでのところ、今日の文章にインプットはほとんど0である。いや齋藤孝先生の本を引用しているから1はあるか。
アウトプットはどれくらいだろうか。体感としては3.8くらいだが、いや、全体を10とするのだから、1:9と考えていいのだろうか。
毎日のことだから、あまり気負わず、大上段に構えず、これくらいでいいのかもしれない。
まぶたのぴくぴくも、軽い吐き気も、今日はない。
このまま、日付が変わる前に床に就こう。
なにか愉快な本をちょこちょこと読みながら眠りにつくのだ。

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