分身の術が使えるようになるまでは


リビングの壁にマスキングテープで貼ってあるのは、息子が園で描いてきた「ママのかお」たち。

最初はピンクや紫のペンで描いた大きな丸の中に、目と口らしい点が3つ。次に見せてくれたときには、ぐるぐるまんまる大きな黒い目2つと、大きく開いた赤色の口が1つ。次第に体を描くようになって、最近は息子が好きだという肩下まで伸びた髪の毛まで描くようになった。

「ここにいるママと、紙のママと、みーんないたら、いいのにねえ」

私の顔と自分で描いた顔を交互に見つめながら、息子がいう。

ママ見て!
ママ遊ぼうよ!
ねえママ!
ママー!

私に向かって絶えず容赦無く飛んでくる声。まだお手伝いをお願いできない家事を理由に待たせるとき、息子の頬はいつも膨らんでいる。

しかたないこと、とはいえ、私も同じようなことをよく思う。
家事・雑務を一手に引き受ける私、
安全に気をつける以外何にも気を取られることなく息子と遊び続ける私、
音楽に本に、その他諸々の趣味にふける私。

せめて私があと2人いたら。
突然鉛のような体にならなくて済むよう上手にローテーション組むのに。

夢みたいなことをよく願うけど、そこにいるのはみんな私だから、きっと第一希望の取り合いになる。3人全員が満足するものなんて永遠に出来っこないことも知っている。それでも。

そうだね、と流すのをやめて「どうして?」と息子に尋ねてみる。
答えを聞いて、わ、目からウロコが落ちた。

「だってさ、ママのお仕事、ママみんなでやったらすーぐ終わるじゃん!そしたら、ぼくともたくさん遊べるでしょ!」

私の悪い癖。直せなくても、息子は大事なことをわかってた。成長。すごいなあ。まだまだ幼児だけど、もうあの頃みたいに片時も肌を離せない赤ちゃんじゃない。

それに比べて私は今も、とりあえず抱え込む、なんでもかんでも先読み深読みしすぎて自己完結して突っ走る、限界を読み誤る。自覚したときには手遅れ。体調を崩したり迷惑をかけるたびに申し訳なくて情けなくて、ひどく落ち込む。もう、うんざり。もっと早めに適切に手を伸ばしたり、伝えられるようになりたいのに。

こんな私がたとえば3人いても、本当に大丈夫?

という言葉は飲み込んで「そうだね。それ、いい考えだね」と伝えたら。

「あったりまえじゃん!みんなで協力すれば、あっという間に終わっちゃうよ!ぼくも手伝うし!」と、得意げな息子の笑顔に会えた。

いつも格好いい自分でいたい息子は、困りごとがあったとき、特に外では、助けを求められない。
信用・信頼できる人を見極めることも難しければ、困りごとを自覚することも、言葉にすることも、またそれを適切な時に適切な人に伝えることも、すべてが難しいことだと思う。

それでも。息子がもっと大きくなったとき、傷ついたり傷つけられたり、傷つけたりしてしまったことを隠したままにして取り返しがつかないことが起きないように。自分のためが無理なら、息子のために。私はこれからも練習し続ける。周りの人にも息子にも、積極的に困りごとを話して協力をお願いする。
長い時間をかけてすべての細胞が入れ替わるように、私にはそれが自然なことだと、息子にはそれが格好いいことだと思える日がきっと来る。

私を救ってくれた息子の言葉が、いつか息子を助けてくれますように。

お手伝いを快く引き受けてくれた息子は、ラーメン屋の店主みたいに威勢のいい返事をして、濡れた洗濯物の山から一つ選んで、ぱっぱっとシワを伸ばし始めた。