勉強ができないことの呪い

私が塾講師のアルバイトをしている塾はいわゆる進学塾というより地域密着型の塾で、通っている生徒たちは多くがその地域に住んでいる地元の子だ。だからテストは余裕な生徒から、学校の授業に全然ついていけないといった生徒まで幅広くいる。

その中でも私は、勉強がしんどめな生徒、特に中学生と関わることが多い。そんな子達と関わるにつれて分かってきたこと。


勉強がしんどい中学生の多くは、小学生の頃から勉強に対して苦手意識を持っていたと言う子が多い。

例えば算数。小学校低学年までは算数を好きだった生徒でも、小学校4年生の分数の計算や、小数の計算から算数につまづき、そこでまず置いてけぼりになる。そして中1で正負の数や方程式が出てきた時点で数学についていくことそのものを諦める。そして授業を聞いていても何もわからないという恐怖の3年間が始まる。そして中学でつまづいた教科は高校に進むとさらに訳が分からなくなる。


学校の勉強は1度つまづくと、その先何年にも渡って影響を与える。


今日、ある中3生徒の英語を担当した。英語のプリントを机においた瞬間に「できるわけない、絶対無理」と連呼する生徒。でも数分後採点すると、数問は正解、そのほかにも惜しい間違いをしている問題が何個か。be動詞が何かはわかっていたし、英語を日本語訳する問題も、全部を日本語に直せなくても部分部分は理解できていた。「全く」できていない訳ではなかった。

だから、私は「できてるよ!大丈夫。3年間の英語も最初からゆっくり学びなおせば絶対できるようになるよ」と伝えた。


でも、

彼は頑なに「絶対無理やわ。できひんもん」と繰り返す。出来ているのに。


話を聞くと、中1の最初から学校の授業は先生が何を言っているのかちんぷんかんぷん。でも頑張ってノートは頑張って全部取っていたためノート評価はずっとA。ただその一方で授業の内容は全くと言っていいほど理解できていないので成績は1年からずっと3年間悪いまま。

毎回の懇談で「次は頑張ろうね」と先生に言われ、「頑張りまーす」と返事しているけど、何をどう頑張れば英語がわかるようになるのか分からないし、今自分が何を分かっていないのかも分かっていないらしい。


その話を聞いて私は、「それはしんどかったなぁ」と返した。

そして彼が自分で解いたプリントを見せながら「出来てるところ、ちゃんとあるよ。ここ出来てるやん。全然出来ていない訳じゃないよ。大丈夫」と改めて伝えた。

すると「あ、そっか。ここは出来てるんや」と小さく呟く生徒。心なしか表情も少し柔らかくなった。


その姿を見ながら、きっと学校の先生、親、周りの人から「出来ていない」とずっと否定されてきたことで、出来ている部分は事実目の前にあるのにも関わらず、出来てる部分も否定して、自分で自分を否定するようになってしまったんだろうなと思った。そしてそのことがとても悲しいなと思った。


そしてこの「勉強ができない」という呪いが与える影響は勉強の範疇に収まらない。


ある生徒と話をしている中で将来やりたいことを聞いた。すると「看護師になりたい」という答え。「めちゃくちゃ素敵やん!」そう返事をした私の言葉にかぶせるかのように「まぁ私勉強できひんし無理やろうけどな」とつぶやく。ほかにも「〇〇がしたい、〇〇になりたい」と言う言葉とセットに「でも勉強ができないから無理」と言う生徒がたくさんいることに気づいた。

本当に勉強ができないとそれはできないのか、その職業にはつけないのだろうか。それが本当かどうかはわからないけど、1つ確実に言えることは「勉強ができない」という1つのできないことがあることで、子どもたちは自分で自分の可能性を否定するようになる。そしてそこにはきっと周りの大人がその子に対してどんな態度や関わりをしてきたかが反映されている。


私は今の社会は「勉強ができること」が過大評価されすぎていると思う。そして「勉強ができないこと」が1人の人の人生に与える影響力が大きすぎるとも思う。

正直、勉強ができるかどうかは「運」がとても大きいと思う。どんな先生に教わるか、その先生の指導法は自分に合っているか、は割り振られた結果でしかない。自分に合った勉強法を知っているかどうかはそれを教えてくれる人が周りにいるかどうかによる。

勉強が出来なくても絶望する必要はない。誰でも何にでもなれる。そう言い切れる、それが当たり前の社会になってほしい。そんな社会にしたいなと思う。


勉強ができないこと、そしてそれを通じて否定されることが子どもたちに与える影響の大きさを感じながら私がずっと大切にしていることは、根拠なしにその子の持つ可能性を心から信じることだ。

私は言霊ってあると思ってて。できるできると言われると不思議とできる気になるように、周りに出来ない出来ないと言われ続けると自分で自分のことを信じることが出来なくなる。

根拠なんて無くていい、これから一緒にできるようにする方法を探していけばいい、もし勉強が出来なくてもあなたの素晴らしいところはいっぱい知っているよ、だから私はあなたの力を信じているよと伝える続けること。これが教育の1つの意味なんじゃないかと思うし、これは大人の義務なんじゃないかとも思っている。


勉強が出来ないなんてたいしたことじゃない、と言いたい。言い切れる社会をつくりたい。










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